かのこん 7 〜さよなら、オオカミ〜 西野かつみ 一、小山田耕太は二度ウェディングベルを鳴らす  まるで、白いベールに包まれているかのようだった。  耕太《こうた》が見るもの、すべてがみな、ぼうと白い。  きっとたぶん、それは午後の淡い光のせいだ。格子状の窓から入りこんだ秋のおだやかな陽光は、いま耕太のいる洋風の部屋を、やわらかに満たしていた。  磨かれてはいるものの、擦《こす》れのためにうまく輝けないでいる板敷きの床や、元は白かったと思われるクリーム色の壁、そして、いま耕太が腰を沈めているクッションのくたびれたソファーに、目の前に置かれた低いテーブルを、ゆるやかに、やさしく、白く。  耕太は、教会にいた。  見たとおり昔からある教会の、その控え室で、待っていた。  祝福のときを——。 「おめでとう、小山田《おやまだ》くん」  呼びかけに、耕太は顔をあげる。  声の主は、耕太の横、テーブルのすぐそばに立っていた。  身体にぴったりとした紺色のドレスをまとった、眼鏡姿の女性だ。  しっとりとした短めの髪型で、その前髪は左端でまとめられ、おでこをつるんとさらしている。彼女は、耕太の元[#「元」に傍点]クラスメイトで、元[#「元」に傍点]学級委員長の——と、いうのも、耕太たちはもう高校を卒業していたから——朝比奈《あさひな》あかねだった。 「ありがとう、朝比奈さん」  ぺこりと頭をさげた耕太に、あかねは笑顔でうんうん、とうなずく。  と、その顔をしかめた。  レンズ下にフレームのない、いわゆるハーフリムの眼鏡ごしの眼《め》を鋭く尖《とが》らせ、耕太の後ろ、ソファーの背もたれの向こう側を睨《にら》む。 「源《みなもと》……いいかげんもう、あきらめたらどう?」  ソファーの背もたれの向こう側からの返事は、大きな舌打ちだった。 「うるせーな。朝比奈にはわかんねーよ。姉を送りだす弟の気持ちなんかよ」  男の声に、耕太はおずおずと振りむく。  後ろでは、黒いダークスーツを着た男が、ソファーの背もたれに腰を引っかけ、座り立ちしていた。そのため耕太からは、彼のすこしうなだれた背中しか見えない。 「た、たゆらくん……」  男の髪は、肩にかかるほど、長い。  耕太の声に、男はその髪をばりばりとかきだした。かき終えるなり、両手でソファーの背もたれをがっしとつかんで、深く深くため息をつく。 「この期におよんじゃ、しかたねーか……」  ソファーから降り、耕太のほうへと向き直った。  切れ長の眼を、さらに鋭く細めて耕太を見おろし——彼、源たゆらは、腕を伸ばしてくる。  耕太の目の前に、たゆらの手が差しだされた。 「頼むぜ、ちずるのこと……。まあ、べつに? おまえがどうこうしなくたって、ちずるのこった、勝手にムリヤリ幸せになっちまうだろーけどな……おまえといっしょによ」  たゆらは、唇をゆるやかに曲げた、ほろ苦い笑みを浮かべていた。  耕太の胸は、きゅーっと締まる。なにか熱いものがこみあげてくる。その胸を満たした熱い感情のおもむくまま、耕太はたゆらの手をつかんだ。右手のみならず、さらに左手もかぶせ、両手で包みこんで、強く、かたく、握りしめる。 「た、たゆらくん、ぼく……ぼく……」 「バーカ、泣くんじゃねーよ! もったいないから、それは式までとっとけ!」 「う、うん……うん……」  耕太はずすす、と鼻をすすった。  ふふふ、とあかねが笑う。 「なんだかんだで、けっこういいやつだよねー、源ってさ」 「そうなんだよ。おれはいいやつなんだよ。そして問題はその『いいやつ』どまりってとこなんだよ。ちくしょう……いつになったらおれはそのラインを越えられるんだ……」 「うん? 源《みなもと》、なに?」 「いーえ、なんでもございませんのことよ? ま、チャンスは二次会だ……ふふ、花嫁の投げたブーケを受けとったものは、つぎに結婚できるという……そんな話を活《い》かしてムードを作って……おい、耕太。おまえ、しっかり投げろよ、ブーケ」  身を屈《かが》めて耳打ちしてきたたゆらに、耕太は眼《め》をぱちくりとさせる。  あ、あれ? でも、ブーケを投げるのは花嫁であって、ぼくじゃあ……あ、そーか、ぼくからちずるさんに頼んでおけばいいのか。考えをまとめ、おっけー、と小声で返した。 「ところでたゆらくん、投げる相手って、だれ……?」 「はああああ!? おまえ、まだ気づいてねーのか!? ど、どんだけ鈍いんだよ……」 「ちょ、ちょっと、いきなり大声なんかあげて、どうしたのよ源」  天を仰ぎ、自分の目元をぺちんと叩《たた》くようにして覆ったたゆらに、あかねが近づき、尋ねてくる。  たゆらは、まぶたを半分ほど閉じたどんより眼《まなこ》で、じとっとあかねを見つめ返した。 「……耕太とおなじくらい鈍いやつが、なんですか?」 「な、なによ、それ? わたしのどこが鈍いっていうの?」  あかねは目元をしかめ、首を傾《かし》げた。本当にわからないようだった。  もちろん耕太も、なにがなにやら、さっぱり。  今日の出席者は、普通の、ごく一般人である昔のクラスメイトたちに、熊田《くまだ》、桐山《きりやま》をはじめとする、ちょっぴり『特別』なひとたちだ。あとはもちろんちずるの母親、玉藻《たまも》に、その玉藻が営む温泉旅館、〈玉ノ湯〉の従業員である、やはり『特別』な女性陣と……あ、まさか、ブーケを投げる相手って、雪花《ゆきはな》さん?  いっそ尋ねてみようかと耕太が口を開きかけたとき、部屋に、硬い音が響いた。  それは、だれかがドアをノックする音だった。 「あ、きたかな? きたかな? 小山田くんの花婿《はなむこ》さん」  とたんにあかねの顔は、ぱーっと華やいだ。「はーい」と返事をして、いそいそとドアへと向かう。  花婿さん……。耕太はソファーから立ちあがり、いまにもあかねが開けようとしている木のドアを見つめた。くきゅん、と唾《つば》を呑《の》みこむ。  ど、どきどきしちゃうよ……。  鼓動は高まり、息は詰まる。耕太は胸を押さえながら、これから訪れる映像を思いうかべた。ちずるの花婿姿……それはきっと、とても美しくて、清らかで……。  と。とと。  んんんんんー? 耕太は首をひねる。 「は、花婿? いまあかねさん、『ハナムコ』っていいました? いや、『ハナムコ』はぼくであって、ちずるさんは『ハナヨメ』のはず……はず……ぱずー! しーたー!?」  きしみながら開いたドアの向こうに、たしかに花婿が、いた。  きらきらとしたラメの入った、黒いロングタキシードなんて姿で。  その白いハンカチーフの収められた胸ポケットときたら、豊かに張りだした大きなふくらみのせいで、見事なまでにゆがんでいた。普段は腰までもあるはずの彼女の長い髪は、いまはアップにして、頭の後ろ側で短くまとめてあるようだった。 「わあ、ちずるさん、ステキ……」 「まったく、我が姉ながら、息を呑《の》むほど美しいとはまさにこのことだぜ……なあ耕太、おまえもそう思うだろ? ホンット、うらやましーぜ、コノヤロォ」  くのくの、とたゆらが耕太を肘《ひじ》でつっついてくる。  つっつかれるがままに、耕太はぐらんぐらんと揺れた。  たしかに、息を呑むほど美しかった。  実際、耕太は息を呑みすぎてひっくとしゃっくりしてしまったくらいだ。その眼《め》ときたら、すっと目尻《めじり》が切れあがって、長いまつ毛にふちどられて、鼻筋はとおって、唇はつやつやふっくらで、ああ、なんて美しい——男装の麗人なんだろう! 「ち……ちずる……さん?」 「やあ、耕太くん」  タキシード姿のちずるは、返事とともに流し目までくれた。その声ときたら、いつもの甘く軽やかな声とは違って、低い、ハスキーボイスであった。 「な、なぜ? なぜちずるさんが、花婿《はなむこ》さん? いや、たしかにステキだし、美しいし、すごくカッコイイとは思いますけど、でも、どうしてタキシード姿なんて……そもそも、ドレスは? ウェディング・ドレスはどうしたんですか?」  たまらずぶつけた耕太の問いに、ちずる、たゆら、あかねは、顔を見あわせる。  三人どうじに、耕太を指さしてきた。 「……え?」  まさか、と思いながら、耕太は自分の身体を見た。  一瞬、頭をよぎった映像を、打ち消そうとして……しかし目の前にあったのは、まぎれもない、その映像であった。  すなわち、純白のウェディング・ドレスが。  そのドレスときたら、輝かんばかりの白い生地で、細やかな飾りが入り、腰はきゅっとくびれ、スカートはふわふわ〜とふくらんだ、まるでお姫さまが着るようなデザインのもので、頭には、きちんと白いベールをすっぽりとかぶっていて……ああ! だからまわりが白く見えたのか! ご、午後の光なんか関係なかった? 「うんうん、小山田くんもすっごくよく似あってるわよ」 「朝比奈《あさひな》のいうとおりだな。あまり褒めたくはねーが、まさに美男美女ってやつだぜ。もちろん、ちずるが美男で、耕太、おまえが美女な?」 「う、う、う……うれしくなーい!」  耕太は叫んだ。 「ウェディング・ドレスが似あってるとか、美女だとか……だってぼく、男だし! たしかにちんちくりんだけど、男だし……なのに、こ、こんな格好……」  じんわりと眼《め》に涙が満ち、あふれんばかりとなる。  涙を白い袖《そで》に包まれた腕でぬぐおうとして、頭からかぶった白いベールにひっかかった。耕太はさらに泣けてきた。 「——みなさーん、もう時間ですよー?」  部屋の出入り口に立つちずるの後ろから、声が届く。  ぐす、と鼻をすすりながら耕太が見ると、廊下に、着物姿の女性がいた。  ちずるの母、玉藻《たまも》だった。  温泉旅館の女将《おかみ》だけあって、深い色の黒に桜の柄の着物をよく着こなしていた。血のつながりはないとはいえ、その切れあがった眼をはじめとした整った顔つきは、じつにちずるとよく似ていて、美しい。玉藻のとなりには、旅館の従業員頭であり、さきほど耕太がたゆらの好きな相手では? と思った女性、雪花《ゆきはな》の姿もあった。雪花は玉藻とおなじく着物姿で、その蒼《あお》い髪をいつものようにポニーテールにまとめてある。 「わかったよ、母さん」  振りむき、玉藻に答えてから、ちずるは耕太に向き直り、手を差しだしてきた。 「さ、耕太くん……いこうか」  まるでエスコートするかのように伸ばされたその白く細い指先を前に、耕太は動けない。きゅっ、と唇を噛《か》んだ。 「……うん? どうしたんだい、耕太くん。まさか、ぼくとの結婚が嫌になったとか?」  だって、こんな格好じゃあ……と説明しかけた耕太は、ちずるが表情を曇らせたのを見て、あわてて首を横に振った。 「そ、そんなこと、あるわけないよ! ぼくだって、この日がくるのを、どれだけ待ったことか……ちずるさんと結婚できる日のことを! ただ、ぼくはこの格好が……」 「あーん、わたしもー! わたしも待ってたっ!」  だだだ、と駆けより。  はむぎゅっ、とちずるは耕太を抱きしめた。  そのやわらか〜くも張りのある、神にも悪魔にもなれちゃう気がするちずるの魔神乳Zに顔面を包まれ、耕太は瞬時に脱力した。ちずるにぐったりと身を預ける。  タキシードのなかに潜む、おそらくはちずるの胸の谷間の奥から、ビターなテイストのコロンが香ってきた。その香りには、たしかにあの、甘い、まったりとしたちずるの匂《にお》いが混ざっていて……ああ、ちずるさんはやっぱりちずるさんだよう……耕太は、ぬくもりのなか、深呼吸をくり返す。すー、はー、すー、はー。  手を伸ばし、頬《ほお》を埋《うず》めていたふくらみに、横あいからふにふにと触れてみた。  考えてみれば、さっきの『あーん、わたしもー!』の声も、いつもの艶《つや》やかなちずるの声だった……ふにふに、ふにふに。指先でふにふにしながら耕太は思う。うふ、うふふ、ぼくのぱいぱいぷー……これからはずっとぼくの……ふにふに、ふにふに。  と、揉《も》んでいた手をつかまれた。  あ、人前なのに、やりすぎた? と耕太は身と心をきゅ〜っと引き締めつつ、手をつかんだちずるの顔を見あげる。  ちずるは、にっこりと微笑《ほほえ》んでいた。 「この続きは今夜、じっくりとね? じゃ、いくよ、耕太くんっ!」  ぐいっと引っぱられた。 「わ、わわ?」  ちずるは耕太の手をつかんだまま、駆けだしていた。  そのまま、部屋の外へ飛びだし、廊下へと。耕太は、慣れないスカートの裾《すそ》とハイヒールにけつまずきそうになりながらも、なんとかついていった。  廊下に響く、ふたりの足音。  その音に、さらに後ろから、たゆらほか一同の足音と、笑い声、話し声がくわわってきた。耕太は走ることに精一杯で、「どうして男女、逆?」と尋ねることが、残念ながらできなかった。      ★  礼拝堂に、パイプオルガンの荘厳な調べが、ふぁんふぁかふぁーんと鳴り響く。  耕太はちずるに腕を組まれながら、礼拝堂の真ん中を通して敷かれた、真紅のカーペット……ヴァージンロードの上を歩いてゆく。  カーペットの両側には、横長の座席がずらりとならべてあった。  その参列者席には、耕太とちずるの元クラスメイトのほか、控え室にいたたゆらやあかね、それと迎えにきた玉藻《たまも》、雪花《ゆきはな》、さらに蓮《れん》、藍《あい》ら耕太の自称娘たち、そして熊田《くまだ》、桐山《きりやま》、澪《みお》たちなど『特別』なひとたちに、おなじく、玉藻が営む温泉旅館、〈玉ノ湯〉従業員である『特別』な女性たちが腰かけ、耕太とちずるを見守っていた。  だから、耕太はすっごく恥ずかしい。  だってぼく、ウェディング・ドレス姿なんだもの……みなの生あたたかな視線に耕太は全身ぽっぽと熱くしつつ、うつむきながら歩き、絨毯《じゅうたん》の先にある祭壇へと進んだ。  階段をのぼり、壇上へあがる。  壇上、祭壇の後ろには大きな十字架がそびえ立っていた。さらにその奥の壁には、色とりどりのステンドグラスがあって、外の光を透かしている。  はー、とため息をこぼしながら、祭壇で待つ神父さんへと視線を移すと——。 「このたびはおめでとうね〜、小山田くん、ちずるさ〜ん」 「……え?」  そこには、大きな丸眼鏡をかけ、髪をふた房の太い三つ編みに束ねた、ほえほえ〜とのんびりした顔つきの女性がいた。ウェディング・ドレス姿の耕太とおなじくらいに小柄な体格で、紺色の法衣をだぼっと着こなし、胸に聖書を抱えている。 「さ、砂原《さはら》先生? ど、どうして?」  彼女は耕太がこのたび卒業した学校の教師、砂原|幾《いく》だった。  かつて、耕太のクラスの担任でもあった彼女が、なぜ神父を務めているのか? 教員資格のほか、聖職者の資格も持っていたのか……もしかして、こっちが本職? 「え〜っと、ではまず〜、賛美歌! さあ、みなさん、いっしょに歌いましょう〜」  耕太のとまどいをよそに、式は進行してゆく。  砂原神父の呼びかけに、席に座っていた列席者のみなみなさまがたが、いっせいに立ちあがった。おそらくは歌詞カードなのだろう、手に持っていた紙を開く。 「では……さん、はいっ」  神父砂原が、手を高く掲げた。  あたかも指揮者のように——と思ったら、本当に指揮するらしい。いち、にぃ、さん、と、リズミカルな動きで宙に指先をすべらせた。  オルガンの伴奏が始まり、列席者が歌いだす瞬間——。 「ストップ・ザ・ミュージック!」  それを止《や》めさせたのは、ちずるだった。  ちずるの伸ばした手のひらが、砂原神父のかけた丸い眼鏡ぎりぎりに突きつけられている。ぱち、ぱちと、砂原神父はまばたきをした。 「え〜、なに〜? どうしたの〜、ちずるさん。ん〜、もしかして……小山田くんとの結婚、嫌になっちゃった〜? まりっじ・ぶる〜?」 「うええ?」  砂原神父のとんでもない発言に、思わず耕太は真横のちずるを見る。  どむにょん。  飛びこんできたタキシードごしのふくらみに、顔面から抱きすくめられた。ま、まさにブレーキの壊れたダンプカー、いや、ぱいぱいぷカー! 「ふざけたことぬかすと、神さまごとぶっとばしちゃうんだからね! ああ、わたしがこの日を、どれほど待ちこがれたことか……耕太くんと『おまえ』『あなた』なんて呼びあえるようになる日を! 『あなた、お帰りなさい。お風呂《ふろ》、お食事、どちらにします?』『う〜ん、そうだな……今日は、ちずる、おまえだな!』『や、あなた、ダメ、あ、ああん、そんな、玄関先でいきなり、せめてベッドで……』なんてなる日を、どれほど!」  ふがが、ふがが。  耕太はちずるのぱいぱいぷーに顔面から埋《うず》まったまま、もがく。息、できにゃいス。 「とにかく、神父さん! わたしには、賛美歌なんて聴いている余裕、ないの! ちゃっちゃかちゃーと誓いの言葉まで、すぐにやっちゃってちょーだい!」  ちずるの言葉に、砂原神父は「ん〜」と悩む。 「は〜い、おっけ〜、わかりました〜」  どうにかこうにか耕太がちずるのぱいぱいぷーから逃れると、砂原《さはら》神父が、にこやかな顔で人さし指と親指でマルを作っているところだった。い、いいの? 「では……」  こほん、と、砂原神父がひとつ咳払《せきばら》いをする。  堂内は静まりかえった。  ちずるも姿勢を正す。さきほど耕太を強く抱きしめたため、よれた胸元や、ねじれたネクタイを直した。耕太も、さきほど強く抱きしめられて呼吸困難になったため乱れた息を、なんとか落ちつける。 「え〜……夫、源《みなもと》ちずる」  いつもとは違った、落ちついた声で、砂原神父は語りかけてきた。というか、やっぱりちずるさんが夫なんだ……。すこし耕太は落ちこむ。 「汝《なんじ》は、その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しきときも、妻、小山田耕太を愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命あるかぎり、真心をつくすことを——誓いますか?」 「はい、誓います」  ちずるは答えた。 「では、妻、小山田耕太……以下略〜。誓いますか〜?」 「い、以下略?」  以下略なうえに、砂原神父の口調はいつもののんびりとしたものに戻っていた。  思わず尋ね返したところ、砂原神父、夫ちずるともに、耕太はじろりと見つめられる。あ、あれ? ぼく? ぼくが悪いの? 「妻、小山田耕太……誓いますか〜?」  砂原神父に、真顔でもういちど尋ねられた。  ちょっぴり納得はいかないが、誓うこと自体に問題はない。命あるかぎり、ちずるに真心をつくす——ちっとも問題なんかない。  ひとつ深呼吸をし、耕太は砂原神父を見つめ返す。 「もちろん、誓いま——」 「ちょっとまったー!」  その声は、けたたましい音とともに堂内に飛びこんできた。  けたたましさの元は、扉だ。  礼拝堂の扉が、なにものかによって、大きく、激しく開けはなたれたのだ。  耕太は振りむき、真紅の絨毯《じゅうたん》の向こうに、見た。  望《のぞむ》の姿を。  銀髪の少女、犹守《えぞもり》望。自称耕太のアイジンである彼女の姿は、そういえば今日、どこにもなかった……と、耕太が思うよりなにより、望のその格好ときたら。  望《のぞむ》は、紋《もん》つき袴《はかま》姿だった。  いわゆる、和式の結婚式で新郎が着るかのような格好である。耕太と似た体格の、いってみればちんちくりんの身体にまとったその姿は、あたかもタキシード姿のちずるに対抗するがごとく……さらに、鼻の下には偉そうに反りかえった髭《ひげ》までつけてあった。  羽織の紋はオオカミ。  手に持った扇子を望がぱんと開くと、そこにもおなじオオカミのマークが入っていた。  望が、すう、と息を吸いこむ。 「こーおたー!」  びりびりと身体に震えが走るほどの大声だった。  まさに吠《ほ》える、という表現がふさわしい声に耳と眼《め》をふさぎながら、耕太は思う。  なんだかこんなシーン、前に見たことがある。  あれはたしかそう、子供のころ、テレビで観た、古い映画のワンシーンで……。 「ふん……望め、『卒業』を気どるつもりか!」  ちずるの呟《つぶや》きに、耕太はそうそう、それそれと伸ばした人さし指を振った。 「いい映画でしたよね、ちずるさん。たしかダスティン・ホフマンが、最後、花嫁をさらいに……って、え? ということは望さん、花嫁をさらいにきたんですか? でも、いま花嫁はぼくなわけで……つ、つまり、ぼくのことを? もしかして、ちずるさん、式の進行をやたら急いでいたのは……」 「望! 耕太くんは渡さんぞ!」 「わー?」  ちずるは耕太の肩をつかみ、強引に抱きよせた。声がすっかり男声に戻っていた。  望が、ざわめく列席者のあいだに伸びるヴァージンロードの上を、ずたたたた、と全力疾走でやってくる。祭壇へあがる階段をひとっ飛び、耕太とちずるの前に立った。 「殺してでも、うばいとる」 「な、なにをする、きさまらー」  望の言葉に、ちずるは耕太を抱いたまま、もがくジェスチャーをし、すぐ立ち直る。 「このバカイヌ! 耕太くんとアイスソードをいっしょにするんじゃないっ!」 「いいじゃん、ちずるー。ちょーだいよー、アイス耕太」 「アイス耕太って、なんだかぺろぺろすると美味しそうな名前ね? まあ、たしかに耕太くんは美味しいけど……ぺろぺろすると美味しいのでるけど……って、もう、やだ、バカ」  いやん、とちずるは赤く染まった頬《ほお》に手を当て、もじもじしだした。 「ちずるさん……神聖な教会で、なんてことを……」  まあ、ぺろぺろされた自分がいうセリフじゃないよね……。自分を抱くちずるの体温がすこしあがったのを感じつつ、耕太はセルフつっこみをした。 「よーし、だったら、アイス耕太がどちらの指輪を選ぶかで、ショーブだ!」  望が、びし、と指先を突きつけてくる。  ちずるはふふん、とせせら笑いを返した。 「いいだろう。どちらの指輪を選ぶか……カモン、おまえたち!」  ぱちん、と指先を弾《はじ》く。 「はーい、ママー」 「はーい、アイジンセンパーイ」  とてててー、とトレイを持ってきたのは、耕太とちずるの自称娘、七々尾《ななお》蓮《れん》と藍《あい》だった。  彼女たちは双子で、違いといったらその栗《くり》色の髪を片側だけのおさげにまとめた髪型の、そのおさげが左か右かだけしかない。左おさげの蓮と、右おさげの藍、そのどちらも、もう耕太が卒業した学校、薫風《くんぷう》高校の制服姿でいた。  ゆ、指輪……?  耕太の前で、ちずると望《のぞむ》、ふたりはトレイに手を伸ばし、とる。  それは、指輪にしてはやたら大きく、薬指どころか手首、いや、首までもがすっぽり入るほどの輪っかで、ご丁寧に鎖までついていて……って、おお? おおお? 「さあ、耕太くん! ぼくの指輪を選んでくれ!」 「ね、耕太。わたしの指輪を選ぶと、いまなら分割金利手数料、いっさいジャパネットのぞむが負担だよ?」  耕太は返事ができない。  だって、それ、指輪じゃないもの。  ふたりが持っていたのは、まごうことなき、首輪であった。  ちずるのは赤い革製のかわいらしい首輪、望のは黒革に金属製のトゲがぐるりと生えた、ワイルドきわまりない首輪。なるほど、首輪にはそれぞれの個性がでて……。 「って、違ーう! ち、ちずるさん、望さん、それは指輪でなく……うわわわ!?」 「ねえ、耕太くん……ううん、ご主人さま。わたしに首輪、つけて?」 「がうがう、がうだよ? 耕太」  それは一瞬、耕太が首輪に気をとられた隙《すき》のことだった。  ちずると望は、それぞれ変化《へんげ》していた。  ちずるは、狐《きつね》の姿に。  望は、狼《おおかみ》の姿に。  ちずるは艶《つや》やかな黒髪を、きらめく金髪へと変え——さらに、頭頂部から狐の耳を生やしていた。望は頭髪はそのまま銀髪ながら、やはり頭には狼の耳を生やしている。どちらも、腰の後ろにはそれぞれの毛なみのしっぽが伸びていた。  ちずるは化け狐、望は人狼《じんろう》。  ふたりは、いわゆる妖怪《ようかい》と呼ばれる存在だった。 「ち、ちずるさん! 望さん! こんなところで、そんな……」  妖怪が、人にその正体を知られることは、禁忌であった。  参列者のなかで、熊田《くまだ》や桐山《きりやま》、澪《みお》はおなじく妖怪だからいい。熊田は妖熊《ようゆう》、桐山はかまいたち、澪《みお》はかえるっ娘《こ》。たゆらは姉のちずるとおなじで化《ば》け狐《ぎつね》だし、蓮《れん》と藍《あい》は昔、〈葛《くず》の葉《は》〉という退魔の組織に所属していたので、妖怪《ようかい》のことはすでによく知ってる。砂原《さはら》はやはり〈葛の葉〉の一員だ。  しかし、あかねは違う。  ちずるたちが妖怪であることを知らない、ごく普通の一般人だ。それに、耕太の元クラスメイトたちも、また……。  耕太は、参列席の様子を確認しようとした。 「そんなの、耕太くん」 「あとでいーよ、耕太」  ちずる、望《のぞむ》の手によって、ぐい、と戻される。ばき、と首が鳴った。 「ご主人さまー!」 「ご主人たまー!」  首の痛みにうめく耕太へ、狐耳のちずると狼《おおかみ》耳の望が、首輪を手に迫ってくる。 「い、いや、あとでいいって……よ、よくない、よくないですよー!」  叫びながらも、いきおいに押され、耕太はあとずさった。  いや、あとずさろうとして、空中を踏みぬいた。  数段高いところにある、祭壇。そこから床を踏み外したのだ、と気づいたときには、すっかりバランスを崩してしまっていた。  狐《きつね》耳と狼《おおかみ》耳が、視界から遠のく——。  と、思ったら、がくん、と止まった。  ちずると望《のぞむ》が、必死な顔で手を伸ばし、耕太の服をつかんで、その身を支えていたのだ。  が、しかし、耕太の服は、ああ、ウェディング・ドレス。  ドレスというものは、もともとそれほど丈夫ではないものだ。あんのじょう、文字どおりに絹を裂くような音をあげて、ドレスは裂けた。なかの人、耕太はドレスの背からこぼれ落ち、祭壇の下、真紅のヴァージンロードの上へと、ごろりんしゃーん。 「わあ……や、やだ、耕太くんったら……」 「おー、耕太、おー」  ちずるは照れ、望は感心し、耕太は「わー!」と叫ぶ。  ドレス無きいま、耕太はすっかり肌身をさらしていた。剥《む》きだしの自分の肌を、耕太は手で隠したり、内股《うちまた》になったり。はたして、ドレスの中身までもがきっちりと花嫁仕様——すなわち、女性用下着を身につけていたのかどうか、耕太にはとても確かめる余裕はなかった。確かめたくもなかったし。 「うう……ど、どうしてこんなことに」 「知れたこと……神の裁きよ」  はっ、と耕太は頭上を見あげる。  声は、祭壇にそびえる大きな十字架から、届いていた。  ステンドグラスからの光を背にした、人ひとりを磔《はりつけ》にできるほど大きな十字架——そこに、本当に磔にされている男の姿が、あった。 「ま……まさか……?」  それは神さま——ではなく。  耕太の学校の生活指導委、八束《やつか》たかおであった。  八束はいつもの黒スーツ姿ではなく、ぼろぼろの布を片方の肩だけにひっかけ身体に巻きつけた、まるで原始人のような格好をしていた。そんな半裸の姿で十字架に磔にされながら、あの鋭い三白眼で、耕太をぎろりんと見おろしてくる。 「や、八束先生、どうしてそんなところに? その格好は?」  くっくっく、と八束は身体を揺すりながら笑った。 「そうか、おまえぐらいの年だと知らんか……。昔な、オレたちひょうきん族というお笑い番組があってな……と、そんなことはどうでもいいわ、この痴《し》れ者《もの》が!」  八束は突然、ただでさえ鋭い目つきをさらに鋭くさせた。  磔にされていたはずの両腕を、ゆっくりと動かし始める。 「女性ふたりとどうじにつきあう、いわゆる二股《ふたまた》をかけているだけでも罪深いというのに、おのれ、神聖なる結婚式の当日にいたっても、いまだどちらかひとりを選ぶことができぬとは……七つの大罪のうち、色欲、強欲はおろか、傲慢《ごうまん》、怠惰、嫉妬《しっと》、暴食と六つも犯しておるわ! よし、サービスだ、いまのおれの憤怒もつけてやろう! これでおまえはひとりセブン……エロチカセブン! もはやその罪、許すまじ! 懺悔《ざんげ》じゃっ、小山田!」  八束《やつか》の腕が、|×《ぺけ》を作った。  どうじに、耕太の頭上から大量の水が落ちてくる。 「わーっ! がぼごぼがべーっ!!」      ★ 「わーっ! かほこほかへーっ!!」  叫びながら、耕太は飛び起きた。  その視界に入りこんできたものは、見慣れた六畳ひと間。 「……あ、あれ?」  年季が入っているため、いくら掃除をしてもどこかくすんで映る部屋……さっき耕太が待っていた教会の控え室に、その古さだけはよく似ていたが、ほかはまったく違う場所だ。当然、さきほど神の裁きを受けた礼拝堂とはぜんぜん違う。なにより暗い。すでに陽《ひ》は暮れかけ、窓から入りこむ光は弱々しいあかね色だった。  ここは、耕太の部屋だった。  築ウン十年のアパートを転用した、学生寮の一室である。いまの自分の格好も、女性用下着などではなく、きちんと部屋着代わりのジャージ上下だった。 「もしかして……もしかしなくても、夢?」  あああああ、と耕太は夕闇《ゆうやみ》のなか、頭を抱える。  ぼ、ぼくはいったい、なんて夢を……。  おれがあいつであいつがおれでな男女入れ替えの夢を見たのもショックなら、ちずると望《のぞむ》に「ご主人さまー」と首輪を差しだされたのもショックだし、最後に八束から懺悔の水を浴びせかけられたのもショックだった。これはいったいどういう深層心理? 女装願望? 嗜虐《しぎゃく》願望? 自虐願望? とにかく耕太は、おのれのなかに潜む闇《やみ》をまざまざと見せつけられた思いであった。 「あううー……」 「ねえねえ、どーしたの、耕太」 「あ、望さん……? あのね、ぼく、あまりにひどい夢を、いま見てしまって」 「ユメ?」 「うん……。教会でね、結婚式をあげるんだけど、そこに望さんがいて……って、え? の、望さん?」  ぱっ、と耕太が顔を跳ねあげると、目の前に、望はいた。  あまりに目の前すぎて、鼻先が触れてしまうほどの距離に、座っていた。  わ、と耕太は飛びのく。  ん? と首を傾《かし》げる望は、あの紋《もん》つき袴《はかま》ではなく、さきほど見た夢のなかで耕太の自称娘、蓮《れん》と藍《あい》が着ていた、薫風《くんぷう》高校の制服姿だった。いまは十月下旬、ついこのあいだ変わったばかりの冬服のブレザーに、なかは白いブラウス、首にはリボン、腰はチェックのスカートといった格好で、望《のぞむ》はちょこんと正座していた。 「の、望さん、いつのまに?」 「最初からいたよ? 耕太、覚えてないの?」 「お、覚えて? え、えと」  だんだんと耕太は思いだしてきた。  学校が終わってから、放課後、耕太はちずる、望といっしょに、まっすぐこの寮の自室へと帰ってきた。寄り道しなかったのは、眠かったからだ。昨日、すこしばかり夜更かししてしまっていて……それから、途中まではなんとか三人でまったりとしたラブラブ時空を愉《たの》しんではいたのだが、やはり睡魔には勝てず、いつしか耕太は眠りこけ……。 「ああ、そうか、ぼく、寝ちゃって……そういえば望さん、ちずるさんは?」 「うん? ちずる? ちずるはね、耕太がすっかりねむねむだったから、起こしちゃ悪いし、いまのうちにごはん、買ってくるって。買い物、わたしも誘われたけど、耕太のそばにいるっていったら、エロいことしたらコロスっていって、スーパーにいった」 「な、なるほど……」  夕食といわれたとたん、現金なもので、耕太はなんだかおなかが空いてきた。  今日の料理、なにかなあ……。  料理が苦手だったちずるも、耕太にほぼ毎日作り続けているうちに、めきめきと上達していた。最近ではぬかみそで漬け物まで作るようになって……うん、浅潰け、おいしいよね。大根ににんじん、キュウリ……しゃくしゃくと……。 「——耕太、すっごくねむねむだったね」  浅漬けの食感に想《おも》いを馳《は》せ、よだれがじゅくじゅく湧《わ》いてきたところに、望が話しかけてきた。 「あ、うん、昨日の夜はね……」  あいかわらず室内は暗いままだ。耕太は答えながら立ちあがり、明かりをつけようと天井の蛍光灯から伸びるスイッチの紐《ひも》を、つかむ。 「ちずると一晩中、えっちなことしてたんでしょ?」  昨日の夜はね、マゾな性癖を持つ少年が主人公なんてモノスゴイ小説を読んでたんだ、と説明しかけ、ああ、だからあんなダメな夢を見たのか……と納得もしつつあった耕太は、望のとんでもない発言に、えむえむーっ!? と噴きだした。 「ひ、一晩中、えっち? し、してない、してないよ!」  耕太はぶんぶんと首を左右に振る。振りまくった。 「だってちずる、なんだかスッキリしてたよ。いつもだったら、ぐーすかぴーな耕太を見たら、ぜったいいたずらしてるのに。脱がしてるのに。さわさわしてるのに」 「そ、それは……」  昨日ではなく、おとといのやつが効いたのかと……耕太は心のなかで弁解する。 「べつにいいよ。だってちずるは耕太のコイビトだもん。コイビトとえっちするのは、アタリマエのことでしょ?」 「う……ま、まあ、そう……なのかなあ」 「で、わたしは耕太のアイジン。アイジンとえっちするのも、アタリマエでしょ?」 「え、えーと? えーと?」  蛍光灯の紐《ひも》をつかんだまま、耕太は首を傾《かし》げる。  そのとき、望《のぞむ》が立ちあがった。  耕太に身を寄せ、じっ、と見あげてくる。 「ねえ、耕太。いままでちずるにしたこと、ぜんぶわたしにもして」 「は、はい? ち、地ずるさんにしたこと、ぜんぶとは?」 「だからぜんぶ。|ちちまくら《あまえんぼさん》。|おしりぺんぺん《お し お き》。|尾てい骨責め《ひみつのケーキ》。|○○○《おまたくにくに》。|○○○○○《おくちのこいびと》。みんな、ぜんぶ。ずどーんと」 「うっわー……」  望がすらすらとならべあげた各種プレイの異名に、耕太は絶句してしまった。  その行為のあまりな特殊さに、ちずるとの秘めやかな行為のはずがすっかり望に知られてしまっていたことに、耕太は打ちのめされる。いや、まあ、ほとんどの行為は望ともいっしょだったんだけどネ? それにしても、行為のネーミングが、あまりにヒドすぎて……。お、おまたくにくにって……。 「ね、耕太」 「うう……ぐすっ、な、なんですか、望さん」  気がついたら、耕太は手の甲で涙をぬぐっていた。  鼻をすすりながら、望を見つめる。 「どうしてわたしがここに残ったか、わかる? ちずるに、おにく買ってあげるっていわれたんだよ? なのに残ったわけ」 「ぜ、ぜんぜんわかりません」  望の頬《ほお》が、ぷう、とふくらんだ。  すぐにぷしゅー、と縮まる。いつもの表情に戻った。しかし気のせいだろうか、普段のとぼけた感じがなく、なんだかすこし怖いような……。 「——耕太」 「は、はい!」 「耕太にとって、わたしはなに?」 「……え」 「耕太にとって、わたしはどんなソンザイ? たとえば、ちずるは耕太にとってコイビトだよね。じゃあわたしは? わたしはなに? アイジン? ただそれだけ?」 「あ……」  薄闇《うすやみ》のなか、それでも望《のぞむひ》の瞳《とみ》は、髪の毛とおなじ銀色だった。  その瞳に、まっすぐ、まばたきもせず見つめられ、耕太は視線をそらすことができない。蛍光灯から伸びる紐《ひも》を引き、スイッチを入れることもできずに、ただ立ちつくした。  つつ……と、冷たい汗が脇《わき》の下を流れ、垂れてゆく。  いったいどれだけ時間が経《た》ったのか……ふっ、と望が微笑《ほほえ》んだ。 「しかたないなあ、耕太は……」  ああ、許された……!  耕太がそう思って、すっかり強《こわ》ばっていた全身の力をゆるめた、そのとき。  んちゅっ。  耕太は眼《め》を見開いた。  見開いた視界は暗い肌色に覆われ、唇にはなにやらすんごくやわらかなものが。  耕太は、望にキスされていた。  そしてそれは、初めての口づけだった。  耕太にとっての初めてではない。耕太はちずると出会ったとき、彼女にファーストキスを奪われて以来、何千……たぶんまだ万の単位はいってないと思うけども、たくさんのキスを交わしてきたのだから。  ただしその相手は、みんなちずるだ。  望は耕太のアイジンではあったが、まだキスはいちどもしたことがなかった。  キス以上のことだってしてきたというのに……もしかしたら、唇は純潔の証だったのかもしれない。まあ、唇で尾てい骨を舐《な》めしゃぶるくらいのことはやったんだけども。  望が、身を引く。 「ま、今日はこのぐらいにしておく」  にへら、といたずらっぽく笑った。  そのまま望は玄関へと向かう。靴を履きだす。足をつっこみ、こんこんとつま先で床を蹴《け》って、かかとを強引に入れた。  ドアを開け、と、思いだしたかのように振りむく。 「あ、耕太。さっきのは宿題だからね」 「さっき……?」 「耕太にとって、わたしはなに、っていうやつ。よーく考えておかなきゃダメだよ?」  そういいのこして、望はでていった。  耕太は、閉めきられたドアに向かって手を伸ばし、そのまま自分の唇へと持ってゆく。指先で、ぷにぷにと押した。 「キス……しちゃった……望さんと、初めて……」  それはすなわち、初めてちずる以外の女性とキスしたということであった。 「さっきの……まさか、正夢……?」  結婚式の夢だ。  耕太が花嫁だったことや、神の裁きを受けたことはともかく。  望《のぞむ》が、ちずるから耕太を奪おうとしたこと——。 「まさか……まさか……」 「たーだいまー」  がちゃ、とドアが開く。 「ねえ、望。もうすっかり夜よ? 耕太くんを起こしちゃダメなのはわかるけど、部屋の明かりぐらいつけたって……って、あれ? 耕太くん、起きてる?」  玄関に、スーパーのビニール袋を持った、ちずるがあらわれた。 「わー!」  耕太は驚きのあまり、激しくびくつく。  つかんだはいいものの、いろいろあってずっとつけずにいた蛍光光の紐《ひも》を、思いっきり引っぱってしまった。  ぶちこん、と切れる紐。  かちかち、と明滅して点《とも》った蛍光灯の光は、眼《め》を丸くする制服姿のちずると、切れた蛍光灯の紐を手に、ぽかんと口を開けるほかない耕太を、残酷に浮かびあがらせた。 「——なに? どうしたの、耕太くん」  ちずるの眼が、すっと細くなる。 「い、いや、その……」 「どうやら望の姿もないようだけど……」  鋭く細めた眼のまま、室内をぐるりと見渡す。  ぴた、とその視線が、耕太で止まった。  瞬時にちずるの目つきは変わった。針のように鋭かった眼が、そのまま糸のようにくっつき、にこやか〜な笑みへと化す。 「耕太く〜ん? 正直にいって? なにがあったの?」 「あ……う……」  その笑顔ときたら、あまりに素晴らしすぎて、耕太は全身の震えを止めることができなかった。眼がにゅいっと細く、頬《ほお》はゆるみ……完璧《かんぺき》だ。完璧な笑顔だ。本当、背筋が凍るほどに完璧な笑顔だった。 「ぼ、ぼく……」  耕太は、正直に話してしまおうと決意した。  ちずるさんは、望さんのことをアイジンだと認めているようだったし……隠したままよりはましだろう。  そう思って、耕太は語った。結婚式の夢から望とのキスまで、あますことなく。 「と、いうわけでして、ぼく、望さんに、チュウを……はじめてのチュウを……」 「ヘエ。ソウナンダ。フーン」  ちずるの声には、まったく感情というものがこもっていなかった。  耕太はとても眼《め》をあわせていられなくて、ちずるの足元ばかりを見つめていたが、その声のあまりの寒々しさに、はっと顔をあげる。  はたして、ちずるの顔には表情がなかった。 「ち……ちずるさん?」  まるでマネキンのような顔をしたちずるが、靴を脱ぐ。  耕太の話を、ちずるはずっと玄関口で聞いていた。ようやく部屋のなかに入り、まず台所にいって、持っていた買い物袋をステンレスの小さな調理場の上に置く。  すた、すた、すた。  ちずるが、耕太の元へとやってきて、目の前に立った。  表情のないまま、うつむく。おもむろに、ブレザーの前に手をやった。  ぷちぷち、とボタンを外しだす。  すべてのボタンを外し終えると、こんどはなかの白いブラウスのボタンへと移った。首元のリボンもぬきとり、続けて白いぶらじゃーも、背中に手をまわし、外した。  ブレザーとブラウスを押しのけ、あらわとなったのは、完全体ぱいぱいぷー。  それはまさに、山ちゃんびっくりおぱスタ(おっぱい・オブ・スタンディングオベーションの略。起立して拍手喝采《はくしゅかっさい》を送らざるを得ないほど素晴らしいK点越えスペシャルおっぱいの意)であった。ふくらみは、丸く、豊かで、張りがあり、重力にもほとんど負けず、つん、と上向きの頂点は淡い薄桃色で……。  おっぱー♪ 「お、おっぱー……」  耕太は思わず返事をしてしまった。  と、そのおっぱーが、遠ざかる。 「耕太くんの……」  え、と見ると、ぐ、ぐぐ、と、ちずるが腰をひねっていた。  ほとんど半身となるほどひねり——。 「ばかー!」 「ふえ?」  おっぱーが、横殴りに返ってくる。  Bagooooooon!! 「ぶっはーっ!」  耕太は顔の横で、まともに喰《く》らってしまった。  ばるるん、るんと揺れながら遠ざかってゆく、ちずるのおっぱー。それは、ひねった腰を振り戻す動きでやってきて、耕太の顔面を打ちぬき、フォロースルーで離れてゆくやわらかな弾丸……まさにジョルト・おっぱー。ガゼル・おっぱー。デンプシー・おっぱー。 「どーだ、耕太! これぞ必殺、のーぶらぼいん打ち!」  あ、そーなんだ。  涙混じりにいいはなったちずるの技名に、そっかー、のーぶらぼいん打ちなのかー、と思いながら、耕太は膝《ひざ》から崩れ落ちた。 「今日はスーパーで総菜の揚げ物が安かったから、メンチカツとカニクリームコロッケ、それとキノコと野菜のサラダを買ってきました! ごはんはもう炊いてあるし、おみそ汁は作ってないけど、インスタントのやつがあるから、お湯を沸かして注いでください! それじゃあ……うわーん、耕太くんの、浮気ものー! キスだけはダメなんだもーん!」  必要な用件をいい終え、ちずるは泣く。  えぐえぐと泣きながら、服を元どおりにする。  おっぱーをしっかりしまい終えるなり、玄関へと駆けだしていった。 「耕太くんの、バカバカバカバカあんぽんたーん! おっぱい、もうおあずけー!」 「ち、ちずる……さん……」  耕太は腰をくの字に曲げ、頭と膝だけで身体を支えた、すっかりKO状態となってしまっていた。そのため、去りゆくちずるに向かって、くの字のまま腕だけを伸ばすしかできなかった。努力もむなしく、ドアはいきおいよく閉じられる。  すごく……効いた。  中身が詰まっているからだろうか、それとも大きさだろうか、耕太は以前、ブラックジャックという、砂を詰めた袋で相手を殴打する武器のことを本かなにかで知ったが……うむむ、まさにぱいぱいジャック。  いや、そういった物理的ダメージよりも。  ちずるを泣かせてしまった、傷つけてしまったという精神的ダメージのほうが強かった。  それに、望《のぞむ》のあの言葉……。 『耕太にとって、わたしはなに?』  望さんは、ぼくにとって、ぼくにとって……ちずるさんは……おっぱー……のーぶらぼいん打ち……望さん……キス……ちずる……。  ああー、ぼくって、サイテーだー。  床にくの字にうつぶせたまま、耕太はうめくのであった。あー、うー。      ★  ちずるが、泣きながら耕太の元を飛びだしたとき——。  望はひとり、ビルの屋上にたたずんでいた。  それは耕太の住む街で、いちばん高いビルの上だった。  まわりに居ならぶオフィス・ビル群のなかでも、ひときわ高いビル。そのビルの屋上の、さらに落下防止のために張られたフェンスの上に、望は立っていた。  風になびく、望《のぞむ》の銀髪。  その頭には、狼《おおかみ》の耳が生えていた。はためくスカートからは、しっぽが覗《のぞ》く。  だれもいないビルの上で、望は人狼《じんろう》の姿となっていた。  人狼と化して——ただ、ぬぼーっとしていた。  夜空の星も、月も、眼下に広がる街の光も、はるか下の道路でうごめく無数の車のライトも、望はまったく見ていない。  ただ、遠くをぬぼーっと、見るともなしに見つめ……。  薄い色の唇を、ぷにぷにと触るだけ。 「耕太……」  ふふ、と笑う。  その表情から、笑みが消えた。 「——なに?」  街の夜景を向いたまま、望は尋ねた。  すると、いつのまにあらわれたのだろう、望の背後に、ふたつの人影が浮かぶ。  ひとりは男、もうひとりは女。  どちらも望より年上の、大人で……どちらも、奇妙な格好をしていた。  身にまとっているのは、白い着物。  月明かりの下では青白くも映るその衣は、襟元や袖《そで》など、ふちの部分がジグザグの線の模様で彩られてあった。着物の前は深めに合わせてあり、腰には黒く細めの帯を締めている。着物の裾《すそ》は膝丈《ひざたけ》よりけっこう上で、脚にはだぼっとしたズボン状の袴《はかま》を穿《は》いていた。足にはブーツ。動物の皮をなめして作ったと思わしき、黒いブーツだった。  なにより、その顔かたちときたら。  ふたりとも、望とおなじ銀髪で、ふたりとも、望とおなじ銀色の瞳《ひとみ》で。  そして、ふたりとも、望とおなじ狼の耳としっぽを生やしていた。  つまり、ふたりとも望とおなじ、人狼——。 「姫さま」  人狼の男が、いった。  男の銀髪は、背中を覆うほど長く、それをまとめるためだろうか、黒い布をハチマキのように頭に巻いている。  そのハチマキの下、男の眼《め》ときたら、まるでガラス玉のよう。  感情というものがない。声もまた、感情を押し殺したかのような、抑揚のない声だった。 「ん? なに?」  男の呼びかけに、望は驚くこともなく、また振りむくこともなく、尋ね返す。 「なんどもなんどもお尋ねし、ご迷惑なのはわかっております。ですが、もう我らには、我が一族には、姫さましかいないのです。どうか、どうか……お願いいたします」  男と女が、その場にひざまづく。 「どうか、姫さま」 「どうか」  ふたりとも、頭をぺたんと屋上の床につける。狼《おおかみ》の耳も、しっぽも、ぺたんとつぶれていた。 「……もうすぐ学校で、しゅーがくりょこーがある」  望《のぞむ》が、ぼそ、と洩《も》らした。 「修学旅行……ですか」 「そう。で、そのしゅーがくりょこーの行き先は、ほっかいどー」 「ほ、北海道? では、そのときに?」  がばりと頭をあげた男に、望は背を向けたまま、ん、とうなずく。  人狼《じんろう》の男女は、もういちど平伏した。 「その言葉……お待ちしておりました、姫さま! いや——我らが長《おさ》!」  それから、望と男女はなにごとか会話を交わし……やがて、男女は去った。ひとりきりになってからも、望はしばらく黙って屋上、フェンスの上にたたずんでいた。  ぷにぷに、と唇に触れながら。 「耕太……」  と、にまにま微笑《ほほえ》みながら。 二、葛の葉 〈葛《くず》の葉《は》〉——。  耕太《こうた》とちずるに、ときには味方し、ときには敵対する組織の名。  さりげなく味方するのは、耕太が通う薫風《くんぷう》高校の教師、砂原《さはら》幾《いく》に、八束《やつか》たかお。  敵対するのは、自称、耕太の妹である、三珠《みたま》美乃里《みのり》ほか、いろいろたくさん。  そもそも、〈葛の葉〉とはなんなのか。 〈葛の葉〉とは、悪い妖怪《ようかい》を退治する、退魔の組織だった。 『退治』とは、退け、治すと書く。  その言葉のとおり、〈葛の葉〉はただ妖怪を倒し、滅ぼすだけではなかった。状況にもよるが、どんな凶悪な妖怪であっても、なるべくなら捕らえ、人と妖怪の共同で作りあげた、妖怪用の刑務所へと送りこむ。  つまり、〈葛の葉〉とは妖怪用の私設警察なのだといってもいい。あくまで私設であって、普通の人間の知るところではなかったが……。  さて、なぜ薫風高校の教師、砂原と八束は〈葛の葉〉なのか。  元々薫風高校とは、〈葛の葉〉によって作りあげられた学校だった。  作った目的は、妖怪の更生。  捕らえたはいいものの、刑務所に送るまでもない、微罪の、いわば不良妖怪。そのうち、見た目が若いものについては、薫風高校へと入学させた。  入学させ、学校という環境で、人とともに生活させるためだ。  そうすることで、不良妖怪に人間社会での生きかたを学ばせる……それが〈葛の葉〉の狙《ねら》いだった。ちなみに、見た目が子供だったり大人だったり老人だったりするものには、きちんとそれ用の施設があった。幼稚園だったり、会社だったり、老人ホームだったり。  砂原と八束は、薫風高校の監視員だった。 〈葛の葉〉の一員として、薫風高校内の妖怪たちの監視に当たっているのだった。妖怪が逃げださぬよう、一般人の生徒に害を及ぼしたりすることがないように見張る、監視役……。  だが、しかし。  ちずるは、かの〈白面金毛|九尾《きゅうび》の狐《きつね》〉である、玉藻《たまも》の義理とはいえ、娘である。さらには、得体の知れない〈龍《りゅう》〉といわれるしっぽを持っていた。〈龍〉の力はすさまじく、神の名を与えられた大海神《おおわだつみ》の攻撃を受けても、傷ひとつ負わないほどだ。とうてい、ちずるを不良妖怪とはいえないはず。  事実、〈葛の葉〉本部からは美乃里をはじめとして、何人かが調査のため、送りこまれた。  望《のぞむ》も最初はそうだ。望の兄、犹守《えぞもり》朔《さく》のちずるに対する調査のついでに、薫風高校に入学し、そのまま居着いた。耕太の自称娘、蓮《れん》や藍《あい》もおなじで、ちずるをさらうため、送りこまれ、途中で裏切って、そのまま耕太とちずるの娘となった。  砂原《さはら》は、八束《やつか》は、なにを考え、ちずるをそのままにしているのか。  美乃里《みのり》をはじめとする〈葛《くず》の葉《は》〉のものたちは、なにを求め、ちずるを調べるのか。  わからない。  わからない、が……〈葛の葉〉はいま、会議をしていた。  かつて出雲と呼ばれた地で。  人里離れた山奥ではなく、街中で。  ビルの建ちならぶオフィス街のど真ん中、最新鋭のインテリジェンス・ビルの最上階、『オフィス・クズノハ』の名で借りたフロアーの会議室で、話しあっていた。  だだっ広い会議室に置かれた、黒い円卓。  正円を描いた大きなテーブルを囲み座るのは、七人の男女。  彼らは、〈葛の葉〉の中心となる、八つの家の当主たちであった。  すなわち、三珠《みたま》家、八束《やつか》家、七々尾《ななお》家、土門《つちかど》家、多々良谷《たたらや》家、悪良《あくら》家、九院《くいん》家、そして砂原《さはら》家の、八家。  これら八家によって、〈葛の葉〉は動かされていた。  しかしいま、円卓に置かれた八つの席には、七人しか座ってはいない。空席なのは、砂原家当主、砂原|幾《いく》、欠席のためだ。  そして砂原幾、欠席の理由とは——。 「修学旅行、だそうです」  告げたのは、〈葛の葉〉八家筆頭、三珠家当主代理、三珠|四岐《しき》だった。  四岐は、ダークブラウンのスーツを着た、青年だった。  髪は七三で、円卓に両|肘《ひじ》をついて重ねた両手で口元を隠し、眼《め》にはにこにことした柔和な笑みを絶やさない。すこし痩《や》せぎすな身体つきもあって、ごくごく普通の、しごく平凡なサラリーマンといった印象を受ける男だった。  四岐は、あくまで当主の代理であった。  本来の当主である彼の父が、病気のためである。三珠家現当主が病に伏せ、すでに一年の歳月が経《た》つが、彼は立派に当主代理を務めあげていた。  そう、完璧《かんぺき》すぎるほど、立派に……。 「修学旅行?」  四岐の言葉をくり返したのは、鋭い目つきの女性、八束たまきである。  ダークレッドのジャケットとズボンに身を包んだ彼女は、八束家の当主代理であり、あの八束たかおの妹であった。年齢は当年とって二十九歳。  ぺったりとした少々癖のある短髪で、その眼ときたら、兄そっくりな三白眼。ぎろりと四岐を見た目つきも、本人の意志かどうかはともかく、ひどく怖かった。  八束家は、〈葛の葉〉のなかでも闘いをその任としている。  たまきも、刀を使わせれば尋常ではない腕前だった。実力のほどでいえば、たゆらあたりは話にならないほどだ。  やはり彼女も四岐《しき》とおなじく当主の代理で、理由もおなじく、現当主の父親が病気だからだった。もっとも、本来であれば兄であるたかおが当主代理を務めなければならないはずではあったが……。 「ええ、薫風《くんぷう》高校で、修学旅行なのだそうです」  たまきの視線をものともせず、にこやかに四岐は答えた。  四岐の言葉に、ただでさえ鋭かったたまきの眼《め》が、さらに鋭くなる。 「修学旅行……〈御方《おかた》さま〉も、いい気なものだ」 「まあまあ、八束《やつか》どのもそうおっしやらずに。砂原《さはら》どのの身に宿る〈御方さま〉が、薫風高校の理事長であることはたまきさまもご承知だとは思いますが……砂原どの自身も、いまはクラスの担任を務めておられるのです。その担当しているクラスが、ちょうど修学旅行の時期となれば、引率せねばまわりから怪しまれるでしょう。〈葛《くず》の葉《は》〉の存在はあくまで秘密……妖怪《ようかい》たちが旅行先で悪さをせぬよう、監督もせねばならないでしょうし。いくら旅行先が北海道とはいえ、遊ぶわけではないのですよ」 「へえ? 北海道なのかい?」  興味津々に身を乗りだして尋ねたのは、髭《ひげ》や頭髪に白いものが混じった、初老の男だ。 「北海道といえば……カニだよなあ」  天井を見あげ、ほけーっと口を開け、よだれを垂らさんばかりにする。そんな彼は、四岐やたまきとは違い、藍《あい》色の着物とズボン……いわゆる作務衣《さむえ》なんて格好をしていた。  男は、七々尾《ななお》家当主、七々尾《ななお》宗仁《そうじん》。  あの、蓮《れん》と藍《あい》の父親である。赤黒い顔もあって、ただの酒飲みオヤジにも見えるが、実際は八束家とならぶ戦闘担当の家だけあって、闘いの腕前はすさまじいものがあった。ちなみに使用武器は鎖使いの蓮と藍と似て、鎖つきの鉄球であった。 「ああ……毛ガニのカニみそをだな、こう、ちゅーっとすすってだな、そこに、きゅーっと熱燗《あつかん》を一杯流しこんでだな……くーっ、たまらん! いいねえ、砂原の幾《いく》ちゃんも、〈御方さま〉も、あーっ、うらやましーっ!」  宗仁は、だんだんだん、と椅子《いす》に座りながら床を脚で踏み鳴らす。とても〈葛の葉〉八家のひとつ、七々尾家の当主とは思えぬ威厳のなさであった。 「オゥ、イエス……」  そこに、宗仁の横に座る、頭にバンダナを巻いた金髪の巨漢が、くわわってくる。  赤いシャツの上に革製のジャケットを着こみ、会議だというのに目元にはサングラスをかけ、口元には金髪の口ひげをたくわえた、一見、アメリカンなプロレスラー風のこの大男。彼こそは多々良谷《たたらや》家の当主、ジョニー・多々良谷であった。 「ミスター七々尾よ、わたしもこんな話をリッスンしたぞ……。ホッカイドーのピープルは、カニをおかずにカニを喰《く》らい、三時のおやつもカニなのだと……夜はススキノでカニキャバ、カニパブとカニナイトなのだと……血液型はカニ型、正座はカニ座……そんなホッカイドー・カニ・レジェンドを……」  ジョークのつもりか、ジョニー・多々良谷《たたらや》はそんなことをいって、「HAHAHA……」と、いかにもうさんくさく笑う。  じつは彼には、妖《あやかし》の血が流れていた。  人の心を読む妖怪《ようかい》、サトリの血が、である。  多々良谷家の『たたら』という読みは、鍛冶師《かじし》が刀剣などを鍛えるとき、金属を溶かすために炎を強く燃えあがらせる際、炉に空気を送りこむ大きなふいごの装置、踏鞴《たたら》からきていた。  それが示すとおり、多々良谷家の仕事は、武具、法具の開発であった。  とくにサトリの血を引く当主の一族は、その力でもって、高精度の道具を生みだしている。サトリの力で道具の使用者の意図のみならず、身体能力、技量など各種データまで読みとることで、相手が完璧《かんぺき》に使いこなせるものを作りあげることができたのだ。  もっとも、当主自身はプロレスラーにしか見えなかったのだが——。  さらに、『ジョニー』という名も自分でつけたもので、べつに外国人の血を引いてはいなかったのだが——。 「カニ伝説ねえ……そいつあいい、いっそおれも北海道に移住しようかな」  宗仁《そうじん》の言葉に、ジョニー・多々良谷は肩をすくめた。かなり大げさに。 「HAHAHA……それはグッドなアイデアだ、ミスター七々尾《ななお》。そうすれば、ユーのしけた顔をこれ以上、ルックせずともすむ……」 「いってくれんじゃねーか、この野郎。てめえ、カニ祭りに参加させてやらねえぞ」 「Oh! カニ・フェスティバル? ノー、ノー、七々尾! わたしもカニ・フェスティバル、トゥギャザーしたいよ!」 「——冗談は、そこまでにしていただきたい」  たまきが、七々尾、多々良谷の両当主を、その鋭い三白眼で睨《にら》みつけた。  宗仁は「そ、そんなに怒るなよ、たまきちゃん……」と愛想笑いし、ジョニー・多々良谷も大きな体を「Oh、ソーリー」と縮こませる。 「なんだい、たまきちゃん。カニ、嫌いだったのかい? そうならそうといってくれりゃあ、シャケやジンギスカンの話に……」 「そうではなく!」  しつこい宗仁に、たまきは声を荒げた。  ひぃ、とびくつく宗仁、そしてジョニー。  そこに……。 「ふふ、ふふふ……」  と、なまめかしい笑い声があがった。 「わかりますよ、八束《やつか》さま……」  そういったのは、口元をふさふさした扇子で覆い隠した、全身紫ずくめの女性だ。  その服ときたら、きらきらとしたラメの入った、深い紫色のドレスだった。髪も紫で、くるくると強いウェーブがかかっている。座る椅子《いす》までまわりの六人とは違い、やたら飾り入りの豪奢《ごうしゃ》なもので、あたりには濃い甘ったるい香りをふりまいていた。  彼女は、九院《くいん》家の当主。  名はそのまま九院だった。当主は代々、九院の名を引き継ぐのだ。  九院家とは、〈葛《くず》の葉《は》〉のなかでも妖怪《ようかい》ばかりが集められた家であった。望《のぞむ》の兄、犹守《えぞもり》朔《さく》も、かつてはこの九院家に所属していた。  ゆえに、やはり彼女も妖怪である。  蝶《ちょう》の妖怪であり、変化《へんげ》時にはあざやかな紫色の羽を背に広げるという。その正体のあまりに妖艶《ようえん》すぎる姿から、配下のものは九院ではなく、クイーンとひそかに呼んでいるとか……実力のみならず、美しさで荒くれ妖怪軍団をまとめあげているとか……。 「——なにがわかるというのか、九院どの」  たまきが、睨《にら》む。  九院もにぃ、と眼《め》を笑みのかたちに細めながら受け、ふたりの視線はぶつかりあった。  かたや鋭い三角形をした、三白眼。  かたや化粧で濃くふちどられた、『女』の眼。 「おうらやましいのでしょう……?」  口元を扇子で覆い隠したまま、九院がいった。 「うらやましい? なにがか」 「ふふ……お兄さまですよ。砂原《さはら》さまといっしょに北海道へと旅立つ、お兄さま……」 「たわごとはそこまでにしていただこう。たしかに八束《やつか》たかおという男は、砂原どのの下にいる。だが、彼《か》のものはすでに当家を勘当されており、八束家とはいっさいの関わりはなく、よってわたしの兄でもない」 「ですが、たとえ勘当されようとも、お兄さまはお兄さま……」 「くどい」  すっ……とたまきの眼が細くなった。 「これ以上、その話を続けるつもりならば……覚悟していただこう」  冷たい、氷のような殺気が洩《も》れる。  殺気はみるみる広がり、会議室のなかに満ちた。  完全に凍《い》てついた雰囲気のなか……ひとつの咳払《せさばら》いが、固まった空気を砕く。 「八束どの。九院どの。いまは会議の場です。そのくらいに」  咳払いしたのは、三珠《みたま》四岐《しき》だった。  あの、サラリーマンにも見える七三わけのにこにこ顔で、ふたりをたしなめる。  たまき、九院とも、黙って頭をさげた。 「では、定例会議を始めましょう。みなさん、よろしいですか?」  にこやかな四岐《しき》の問いかけに、他の六人はうなずいた。  なお、いまとくに言葉を発しなかった、残るふたりの当主……。  土門《つちかど》家と、悪良《あくら》家について。  うちひとり、土門家の当主は、そもそも言葉を発することができなかった。  ちょこんと椅子《いす》に座る少女——というか、半分幼女。  頭に幅広の白い頭巾《ずきん》をかぶり、身体にはすこし大きめのサイズの、やはり白い着物を着る彼女は、口元を布で覆っていた。  そしてその布には、大きな×の柄が入っていた。  土門家は、〈葛《くず》の葉《は》〉においては法術を担当している。その当主ともなれば、とてつもないばかりの霊力を持っていた。それゆえに、当主は必要最低限の会話しか許されてはいなかったのだ。  言霊、という言葉がある。  言葉には、霊威が宿っている、という意味だ。  たとえば、『死んじゃえ』といったとする。冗談であっても、いちど言葉を発してしまえば、本当に相手は『死んで』しまいかねない……それが言霊だ。  もつとも、普通の人間ならばそれほど気をつかわなくてもよかったが……土門家の当主ともなれば、そうもいかない。  死ぬのである。彼女ほどの霊力を持つものが『死ね』といえば、本当に死んでしまうのである。まさに呪詛《じゅそ》であった。  だから彼女は下手に言葉を発せなかった。  代わりに、土門家当主の前には、札つきの棒が、二本置いてあった。  札のひとつには、『○』の文字が。  もうひとつには、『×』の文字が記してある。  土門家当主の少女は、その札を使うことで、自分の意思を伝えていた。足りないときには紙に字を書く。いまも、少女は『○』の札をぴこんとあげていた。  もうひとりの、当主。  悪良家の当主については、ただただ無口なだけだった。  年齢不詳の男で、全身黒ずくめの格好で、椅子に黙って座っていた。こざっぱりと刈った坊主頭で、鼻や耳、眼《め》の上など、いろんなところにピアスをつけている。派手といえば派手、地味といえば地味だった。  だれとも眼をあわさず、うつむきと、暗いのは、悪良家の仕事が影だからだろうか。  たとえば、諜報《ちょうほう》。たとえば、拉致《らち》。たとえば、暗殺。  悪良家とは、〈葛の葉〉の闇《やみ》を担う家だった。  つまり、〈葛の葉〉八家の当主とは……。  一、三珠《みたま》家。〈葛の葉〉全体の司令役。  二、八束《やつか》家。〈葛《くず》の葉《は》〉における戦闘部隊。  三、七々尾《ななお》家。八束家と同。  四、土門《つちかど》家。〈葛の葉〉における法術部隊。  五、多々良谷《たたらや》家。〈葛の葉〉における技術開発部隊。  六、悪良《あくら》家。〈葛の葉〉における諜報《ちょうほう》部隊。  七、九院《くいん》家。妖怪《ようかい》のみで構成された特殊部隊。  八、砂原《さはら》家。〈葛の葉〉全体の監視役。  なのだが、実際には……。  一、三珠家の当主代理。にこにこサラリーマン。  二、八束家の当主代理。キツめの三白眼女。  三、七々尾家の当主。酔っぱらいジジイ。  四、土門家の当主。無口コスプレ半幼女。  五、多々良谷家の当主。アメリカン・プロレスラー。  六、悪良家。無口格闘家風男。  七、九院家。超高級クラブのママ。  八、砂原家。ほえほえ新任女教師。  にしか、とても見えないのであった。  なお、砂原家が〈葛の葉〉の監視役なのは、当主に代々宿る、〈御方《おかた》さま〉の力である。  神世の時代から生き続けているともいわれる、砂使いの〈御方さま〉……彼女は〈葛の葉〉の創成メンバーのひとりでもあり、そのために組織が間違った方向にいかないか、つねに見守り続けてきた。  さて、その〈御方さま〉ぬきの会議は、三珠|四岐《しき》の進行によって、つつがなく進み——。  やがて、最後の議題も終わった。 「はー、ようやく終わった、終わった」  七々尾|宗仁《そうじん》は、ぐったりと椅子《いす》にもたれた。 「あー、もー、ホント疲れたわ。やだね、年はとりたくないね。おれも四岐坊やたまきちゃんのように、娘ふたりにまかせちまうかね」  その言葉に、ジョニー・多々良谷が、金髪の口ひげで囲まれた口を、にやりと曲げた。 「ん? なんだよ、多々良谷の。いいたいことがあったらハッキリいったらどーだい」 「いや……そんなことより、ミスター七々尾。このアフター、予定はナッシング? どうだ、カニでもイートしてアルコールをドリンクするのは……」 「お、いーねえ! よーしよしよし、ひさしぶりに呑《の》むかあ! カニカニー!」  盛りあがる宗仁とジョニーに、たまきは目元をしかめ、九院はうふふ……と微笑《ほほえ》む。悪良家当主は無視し、土門《つちかど》家当主の少女は、身を乗りだしてぴこぴこと『○』の札をあげた。どうやら彼女もカニを食べたいらしい。 「——そのカニ、少々お待ちいただけますか」  と、声をかけたのは四岐《しき》だった。 「なんだい、四岐坊。おまえさんもカニ、食うかい?」 「いえ……最後にもうひとつ、議題にあげたいことがありまして」 「なんだなんだ? そんなの……書いてねーぞ?」  七々尾《ななお》宗仁《そうじん》は、テーブルに置いてあった資料の紙をぱらぱらめくる。土門家当主は『○』と『×』の札をいっしょにあげ、首を傾《かし》げていた。 「はい。予定にはありません。ちょうどいま、都合がいいものですから……」 「都合が? どーゆーこった?」 「砂原《さはら》どのが、この場におりませんので」 「砂原の幾《いく》ちゃんが……?」 「さて、議題をあげるその前に、ひとつ告白せねばならぬことがございます」 「あん……?」  七々尾《ななお》のみならず、多々良谷《たたらや》、八束《やつか》、九院《くいん》、土門《つちかど》に悪良《あくら》と、ほかの五家も、つぎの四岐の言葉を待った。  四岐は薄く笑い、そして口を開く。 「我が三珠《みたま》家の犯したあやまちと……砂原家の反逆について」      ★  三珠四岐は語った。  いまから半年前の四月、三珠家からの密命により、七々尾|蓮《れん》、七々尾|藍《あい》が、薫風《くんぷう》高校へと入学したことを。それはちょうど、砂原幾が〈葛《くず》の葉《は》〉に召還され、薫風高校不在のおりである。  蓮、藍にくだされた密命とは、とある女生徒の拉致《らち》。  しかし失敗した。いや、ただ失敗しただけならばまだよい。それどころか、蓮と藍のお目付役としてつけていた三珠家の人物が、暴走してしまった。  その人物は、九院家より借りた蟲使《むしつか》いの妖怪《ようかい》の力を使って、薫風高校を襲う。  あやうく一般の生徒が犠牲になる寸前、皮肉なことではあるが、拉致するはずだった女生徒の力によって、虫たちは倒され、惨劇は防がれた。 「……よくわからないな」  そういって眼《め》を鋭くさせたのは、八束たまきだった。 「砂原どのをわざわざ不在にさせてまでの潜入……あげく薫風高校を襲撃し、一般の生徒を巻きぞえにしたと。おまけにそれには三珠家のみならず、七々尾家、九院家までが関係していたという。まったくもって初耳で、まったくもって不可思議ではあるが、なにより、そこまでやった理由が、『とある女生徒の拉致《らち》』とは? そしてそれが、なぜに砂原《さはら》家の反逆へとつながるのか?」 「申し訳ございませんわ……」  九院《くいん》が、しずしずと頭をさげた。 「配下のあやまちは、わたくしのあやまち……。あの蟲使《むしつか》いめ、仮面なライダーにちょっと似ているので、けっこう眼《め》をかけてやったのですけど……ねえ、七々尾《ななお》さま?」 「お……おう! なんつーか、娘のせいで申し訳ねーというか……」  七々男|宗仁《そうじん》は、その白髪混じりの頭をばりばりとかく。四岐《しき》が語っているあいだ、宗仁はずっとばつが悪そうにお茶をすすりまくっていた。 「七々尾どの!」  たまきの怒鳴り声に、宗仁は背筋をしゃんと伸ばす。 「は、はい!」 「これほどの大事、なぜにすぐ報告なされなかったのか? そう……当事者たるあなたの娘、七々尾|蓮《れん》、七々尾|藍《あい》はいずこか。彼女たちから具体的に話をお訊《き》きしたい」 「い、いやー、それがさー、たまきちゃん……」  宗仁ははにかみながら頭をかく。 「ミイラとりがミイラになっちまったとゆーか、なんとゆーか、蓮も藍も、その『とある女生徒』にぞっこん惚れこんじまってなあ。いやー、早くに母親を亡くしちまったせいかな、そいつの母性に負けたというか……おっぱいに負けたというか……とにかく、その女生徒のそばにいたいがために、薫風《くんぷう》高校にそのまま残っちまいやんの。なんど呼びだしても、ちーっとも帰ってきやがらねーんだ、これが」  頭をかきすぎて髪を乱しながら、宗仁はあっはっはー、と笑う。  つられたように、ジョニー・多々良谷《たたらや》は「HAHAHA……」と外国人笑いをし、九院も「ふふふ……」と笑う。土門《つちかど》家当主と悪良《あくら》家当主は、変わらず黙ったままだったが。 「笑っておられるばあいか!」  だん、とたまきは円卓に握《にぎ》り拳《こぶし》を叩《たた》きつけた。  会議室内が静まりかえったなか、たまきは四岐へと視線を向ける。 「ならば三珠《みたま》どの、もうひとりの当事者……暴走したとかいうお目付役、どうやらすべての元凶らしい三珠家のものとやらは、いずこ!」 「——そのものの名は、三珠|美乃里《みのり》です」  四岐の言葉に、たまきは、はっ、となる。 「三珠美乃里? あの造られた子か? 〈神の器〉……」 「はい。その美乃里は、いま罰を受けております。残念ですが、出席はかないません」 「罰だと……?」 「ええ。目付役というおのれの立場も忘れ、独断で行動し、薫風高校を襲撃、あやうく一般の、なんの関係もない多くの生徒たちを犠牲にするところだったのですから……その罪、とても許されるものではありません。それなりの罪を与えねば……ね」  そのとき、四岐《しき》のにこにこ顔に、一瞬、にたり、とゆがんだ笑みが浮かんだ。  すぐに元の明るく健全なにこにこ顔に戻り、椅子《いす》から立ちあがる。 「ですが、その暴走によって、我らは多くのものを得ることができました! みなさまにご説明いたしましょう、砂原《さはら》どのが我らをあざむき、薫風《くんぷう》高校に隠し続けてきた存在を……『とある女生徒』を! 彼女の名は、源《みなもと》ちずる!」 「源……ちずる?」 「そうです。そして彼女こそは……かの悪名高き〈白面金毛|九尾《きゅうび》の狐《きつね》〉の娘であり、我ら〈葛《くず》の葉《は》〉が永きにわたって追い求めてきた、〈八龍《はちりゅう》〉なのです!」 「〈八龍〉……!?」  たまきのみならず、土門《つちかど》家当主、悪良《あくら》家当主までもが、眼《め》を大きく見開き、驚きの様子を見せた。  ただし、ジョニー・多々良谷《たたらや》はサングラスをかけていたために表情はわからず、事情を知っていただろう宗仁《そうじん》は居心地悪そうに頭をかき、九院《くいん》は静かに微笑《ほほえ》んでいる。 「証拠もございます。あとでお見せいたしましょう、虫を倒す際、彼女が使った〈龍〉の尾の映像を……そう、すべては一年前、薫風高校にて起きた、音楽室および校舎屋上の爆破事件より始まっているのです……」      ★  会議室のドアが、開く。  むっつり顔の悪良家を先頭に、ぞろぞろと当主たちは廊下へとでてきた。みな一様に黙りこみ、重苦しい顔をしている。 「——たまきさま」  各家の当主の補佐役のものたちは、それぞれ廊下に控えていた。  みなが各家の当主の元へとおもむくなか、たまきの補佐を務めるスーツ姿の若者も、彼女のそばに近づいてゆく。 「どうされたのですか? そんなに恐《こわ》い顔をなされて……」 「わたしの顔は、そんなに恐いか?」 「は?」 「恐いのは眼だろう? この目つきは遺伝だ。父も……家をでたあのバカも、おなじ眼をしている。まったく、いまはこの血が恨めしいよ……八束《やつか》の家に生まれたことが……家を飛びだし、すべてをわたしに押しつけた無責任な兄の妹として生まれたことが……」 「たまき……さま?」 「急ぎ、戻るぞ。場合によっては、仲間同士で闘わねばならぬやもしれん。もしかすれば、あの〈御方《おかた》さま〉と……おそらくは、兄ともな……」 「は、はい!」  たまきと若者は、足早にエレベーターのほうへと向かう。  その背を、見つめるふたつの姿があった。  七々尾《ななお》宗仁《そうじん》と、ジョニー・多々良谷《たたらや》である。 「やっかいなことに、なっちまいそうだなあ……」 「Oh、イエス……」 「カニはまたあとだなあ……」 「Oh、アイムソーサッド……カニまたアフター……」  うなだれたジョニーの大きな肩を、小柄な体躯《たいく》の宗仁は、伸びあがるようにしてぽんぽんと叩《たた》く。  多々良谷家当主には、代々サトリの力があると、前に述べた。  それはいわゆる接触テレパスというやつで、触れることで相手の思考を読みとることができる力だった。  読みとることができるということは、またその逆もまた、しかり……。  宗仁とジョニーは、いま心のなかで会話していた。 (——なあジョニー。どう思う、たまきちゃんはよ?) (〈御方さま〉と裏でつながっているかどうかか? ないだろう。八束《やつか》たかおのことを持ちだされたときの彼女の怒りは、真実のものだった。むろん、肉親の情はまだ残っているだろうが……すくなくともいま、彼女と八束たかおは通じあっていない) (こっちにそう思わせるのが狙《ねら》い、なんつーことは……〉 (宗仁よ、おまえの底意地の悪さもかなりのものだな) (おまえにだけはいわれたくねーぞ、ジョニー。なんなんだ、おまえのあの、いつものエセ外国人風の喋《しゃべ》りかたは) (わたしはあれが素だ。だが、あのような英語混じりだと、おまえはよくわからないだろう? だからわざわざ、いまは普通に近いかたちでわたしの意思を送りこんでいる) (つまりそれはなんだ。おれには英語がわからねーと、そういいてえわけか?) (宗仁よ、おまえに教養がないなどということは、だれもいっていない) (おれだってそこまではいってねー! ったく、おまえはよー……)  こんな会話がくり広げられてはいたが、端からはただ、カニが食べられないことを残念がって悲しむプロレスラーを、なぐさめる酔っぱらいのオヤジにしか映らなかった。 (それはそうと……どうだったんだっけ、アレは)  宗仁が、ジョニーに尋ねる。 (前に会っただろう。例のアレに、おまえの娘が) (大物だぞ)  ジョニーは、しみじみと答えた。 (高校生の身で、本妻のほか、すでに愛人持ちだ) (ほうほう、そいつはたしかに大物だな……って、おまえ、だれの話をしてるんだ) (源《みなもと》ちずる——の、恋人の話だが) (バカヤロウ。って、あれ? 源ちずる本人の心を読んできたんじゃなかったっけ?) (もしかしたら〈八龍《はちりゅう》〉かもしれんのにか。そんな危険な相手に、かわいい愛娘《まなむすめ》を接触させられるか) (この親バカ! その危険な相手を、おれの娘たちはママー、ママーって慕ってるんだぞ……どれだけ危ねーか……前も海でトラブルに巻きこまれたらしいし……くーっ!) (親バカという言葉、そっくりおまえに返そう、宗仁《そうじん》よ)  あーはははと、宗仁は実際に声をあげて笑った。  もはやほとんどのものがいなくなった廊下に、彼の声だけが響く。 (てめえ、お家の大事なんだぞ。娘のひとりやふたり、命張らせろや) (宗仁よ、お家の大事とはいうがな、我らがいくらあがこうとも、〈葛《くず》の葉《は》〉を根本から変えることはできんのだぞ。おまえだってわかっているだろう? 我らはしょせん、駒《こま》……頭の命を受けて動く、腕であり、足でしかないのだ) (んなこたわかってンよ! 問題は、どっちの頭に従うかだろーが。困ったことに、どっちの頭もなにを考えているのかよくわからねえ。道理でいえば三珠《みたま》のこせがれなんだが……なんだって〈御方《おかた》さま〉も、〈八龍〉を隠すなんて真似、しやがってんのか……くそ、こんなときに三珠のジジイも八束《やつか》のジジイも、病なんぞになりやがって) (彼らも病気になりたくてなったわけではない。それを責めるのは酷というもの……それに、もうひとつ頭ができるかも) 「——あん?」  思わずといった様子で、宗仁は実際に声をだし、問い返していた。  ジョニー・多々良谷《たたらや》は、サングラスごしの視線を廊下の先へと向け、指先を弾《はじ》く。 「ヘイ、カモン、マイドーター、ナンシー……」  廊下の壁には、ジョニーとおなじく、頭にバンダナを巻いた女性が立っていた。  彼女の眼《め》ときたら、まるで猫のように、はにゃーんと細い。 「わたしの名前がナツミだからって、ナンシーはやめてくんないかなー、パパ」  そう、それはかつて、耕太にちずるへの指輪と、望《のぞむ》へのチョーカーを作ってくれた女性——サトリの女性だった。      ★  七々尾《ななお》宗仁とジョニー・多々良谷、ナンシー・多々良谷もとい多々良谷ナツミが読心での会話を続けていたとき、三珠|四岐《しき》は、だれもいなくなった会議室に、ひとり、いた。  がらんとした部屋の、無人の円卓。  そこで四岐《しき》は椅子《いす》に背を深くもたれかけさせ、天井を見あげていた。  四岐の口元には、会議中、美乃里《みのり》のことを語ったときに一瞬だけ浮かんだ、ゆがんだ笑みが隠すことなくあらわれている。にこやかだった眼《め》にも、ぎらぎらとした暗い光が浮かびあがっていた。 「ふ、ふふふ……」  四岐が笑う。  ひそやかだった笑い声は、やがて、大きく狂おしいものへと変わった。  身をよじり、目尻《めじり》に涙を浮かべながら笑い続け、ついには椅子から転げ落ちた。それでもなお、笑う。笑い続ける。 (四岐さま……)  と、どこからか、女性の声が響いた。  声のした方向には、どこから入りこんだものか、あざやかな紫の羽を持った蝶《ちょう》が一匹、ひらひらと舞っている。 「九院《くいん》か……どうした?」  床の上にあおむけとなって、激しい笑いによる呼吸の乱れに胸を上下させながら、四岐は蝶に尋ねた。 (よろしいのですか……このままで……) 「だからなにがだ、九院」 (すべてです……やたら生意気な八束《やつか》の小娘も……なにやら小賢《こざか》しいことを企《たくら》んでいるらしい年寄りどもも……北の地へと逃げた〈御方《おかた》さま〉も……それに……) 「それにのつぎが美乃里のことなら、答えは変わらんぞ。美乃里は我らの役に立ってくれたし、そしてこれからも立ってくれるだろう。あいつの力はまだ必要だ」 (たしかに……役に立ってはくれました……が、それは、結果的にです……)  蝶は、四岐の目の前をいそがしく飛びまわった。 (なるほど、美乃里が薫風《くんぷう》高校にて起こした暴走によって、我らは源《みなもと》ちずるが〈八龍《はちりゅう》〉だと確信を持つにいたりました……ですが、あの暴走によって、〈御方さま〉にこちらの意図をさとられたのもまた事実……。あの時点であえて無理をする必要は、どこにもなかった……違いますか……?) 「ふん? つまり、美乃里がわざと暴走したと? 九院、ひとつ忘れているようだが、美乃里自身に虫に使う能力はない。暴走を命じたのはたしかに美乃里だが、虫による薫風高校襲撃を実行したのは、ほかならぬきみの配下である、蟲使《むしつか》いの妖《あやかし》なのだぞ?」 (ですから……不安なのです……)  蝶は、あおむけになったままの四岐が伸ばした指先に、ぴたりととまった。 (九院家の妖が、当主であるわたくしの命ではなく、美乃里の命に従った……とうてい考えうることではありません……なぜ……)  ふ……と四岐は笑った。  蝶《ちょう》のとまった指先を、自分の鼻先へと持ってゆく。 「九院《くいん》ともあろうものが、なにを恐れる……よしんば、美乃里《みのり》がなにか企《たくら》んでいるのだとしよう。だが美乃里には、我らにその企みを隠しとおしておくことなどできはしない。美乃里は我らに秘密を持てないのだ[#「美乃里は我らに秘密を持てないのだ」に傍点]。九院、それはきみもわかっているはずだな」 (ええ……ですが……) 「なにも心配はいらない。たしかに〈御方《おかた》さま〉にはこちらの意図を気づかれただろう。今回、砂原《さはら》幾《いく》が会議を欠席したのもそのためだろうな。だが、それがどうした? 今回、ほかの当主たちには、〈御方さま〉への疑念を与えることに成功した。あとはその疑念を確信に変えてやればいい……ふふ、そんなのはたやすいことだ。なぜなら、〈御方さま〉が〈葛《くず》の葉《は》〉をあざむき、〈八龍《はちりゅう》〉を隠しているのはまぎれもない事実なのだからな。あとはそれを証明するだけでいい……なんなら、〈葛の葉〉全軍をもちいて薫風《くんぷう》高校に攻め入り、強引に〈八龍〉たる源《みなもと》ちずるを得てもいいんだ」 (しかし……) 「なにをそれほど不安がるんだ。いま我らが恐れることといったら、源ちずるが本当は〈八龍〉ではないということだが……半年前のあのとき、蟲《むし》たちを焼きつくしたのは、まぎれもなくちずるだった。ちずるがひとりで発現した六匹の[#「ちずるがひとりで発現した六匹の」に傍点]〈龍[#「龍」に傍点]〉だった。それはまちがいがない。なぜって、目撃していたのは美乃里だけではないのだから……なあ、鵺《ぬえ》?」  呼びかけながら、四岐《しき》は身体を起こした。  上半身だけを起こした四岐から、伸びる色濃い影……そこから、にゅいっと頭があらわれる。  きれいな白髪をした女性の頭だった。  白髪で、片目の隠れた女性——鵺は、顔の上半分だけを四岐の影からだした状態で、こくん、とうなずく。 「な、九院? 鵺は人造|妖怪《ようかい》……たとえ美乃里が嘘《うそ》をつけても、鵺は嘘をつけない。そう造られたのだからな。そして鵺はつねに美乃里とともにある。ゆえに美乃里は、我らに企みなど持ちえない。鵺からすべては洩《も》れてしまうのだから……安心したか、九院」  九院は、答えない。 「まあ、そんなことより、北海道だ。なあ九院、楽しみじゃあないか? あの獣どもが、どう動くか……あの絶滅寸前の狼《おおかみ》ども、ようやく見つけだしたお姫さまを相手に、どう踊ってくれるかな? はは、わくわくするじゃないか。なにか旅先で不祥事でも起こしてみろ、すぐに薫風高校をつぶしてくれる……さあ、北海道といえばカニだな。九院よ、カニでも食べながら待つとしようじゃないか、吉報をな」  四岐は、指先の蝶に向かって、笑いかけた。  彼の影に潜んでいた鵺は、そこから頭半分だけではなく、さらに片手をだす。手をカニのかたちへと変形させ、かにかに……と、ひとりハサミを動かしだした。 三、小山田耕太は修学旅行の夢を見るか?      1  耕太《こうた》は、その切れこみを、じっと見つめていた。  縦に伸びる深い亀裂《きれつ》だ。まわりには毛が、細やかながらもびっしりと生え、けっこう毛深い。暗い狭間《はざま》の奥に、耕太が初めて触れる神秘の世界が、うっすらと覗《のぞ》けた。 「だ、だめなんだよ、耕太くん」  ちずるが、制止の声をあげる。  声だけではなく、ちずるは手も伸ばしてきた。耕太はその手をそっと押しのけ、目の前にある切れこみへと、鼻先を寄せてゆく。  すんすん、すん。鼻をうごめかす。  潮の匂《にお》いが、した。  甘く、しょっぱく、ほんのりとだけど生臭くもある、まさに母なる海の匂い……耕太の口のなかには、自然と唾《つば》があふれだしてきた。ぐきゅん、と呑《の》みこむ。  心の求めるままに……耕太は切れこみの両側に指を置き、ぐっ、と力をこめた。 「ほ、本当にだめだってば、耕太くん……あっ」  くぱぁ……。  さしたる抵抗もなく、あっさりと切れこみは開く。 「ああ……だ、だめだっていってるのにぃ……こんなの、いけないのにぃ……」  内部は、じつに複雑な形状をしていた。  やわらかそうに絡みあう肉に、あふれんばかりの汁がまとわりつき、つやつやと輝いて……ああ、なんて綺麗《きれい》なんだ……感嘆のあまり、耕太はため息をついた。  指先に、さらに力をこめる。  思いっきり、切れこみを開いた。 「やっ! こ、耕太くん!?」  ぐっぱぁ……と開き、もはや隠すもののなくなった、汁まみれの肉。  耕太は、はあ、はあと息を荒げながら、唇を近づけ——。 「だ、ダメ! それだけは絶対ダメ! だって、耕太くんが、ああ、汚れてしま」  じゅるるるるりん。 「やあああああん! ら、らめぇ、らめなのぉ、耕太くぅぅぅぅん!」  耕太は、汁をすすった。  甘い。しょっぱい。やっぱりちょっぴり生臭い。  だが、美味《うま》い。美味すぎる。身体が震えるほどの旨味《うまみ》が、耕太の口中に満ち、続けて舌を、喉《のど》を灼《や》いた。鼻の奥を、潮の香りがもはーんとぬけてゆく。 「あ、ああ、あああああ……そんな、耕太くん、やあああ」  震えるちずるの声を、どこか遠くに聞きながら、耕太は思った。  ああ、これが、これこそが——。  毛ガニの味かあ! 「——もう、いいかげんにしなさーいっ!」 「うひゃ!?」  いきなりの怒声に、生まれて初めて食べた毛ガニの、その神秘なる肉&肉汁の旨味《うまみ》によってすっかり|カニの星くず《カニー・スターダスト》へと旅だっていた耕太は、瞬時に地上へと連れ戻された。  いま怒鳴ったのは、ちずるではなかった。  いや、たしかにちずるは、ずっと耕太を制止していた。  耕太とちずるは、白いテーブルクロスのかかった、四角い四人がけのテーブル席に座っていた。そこで、席に備えつけのナプキンすらつけず、塩ゆでされた毛ガニを素手でとり、食べやすいよう切れこみの入れてあった甲羅を、下から『くぱぁ……』と開いて、なかの複雑に絡みあった白い肉にじゅるるるとむしゃぶりついたイケナイ耕太を、ちずるは『学校の制服が汚れちゃうじゃない』と、となりの席から一生懸命に止めようとしていた。  が、違う。  いま怒鳴ったのは、ちずるじゃあない。  なぜならちずるも、いまの怒声に驚いて、耕太に抱きついていたのだから。  ちずるは耕太とおなじく、薫風《くんぷう》高校の制服姿だった。  さらに首からはちゃんとナプキンをかけていた。そのため、ちずるに抱きしめられた耕太の横頬《よこほお》には、すこしごわついたおっぱーが当たることとなる。耕太は、ちずるの胸からの心音があくまで平常なのを聞きとって、わざと抱きついてきたんだろうな……と思いつつ、手のなかの毛ガニから、さきほど自分を怒鳴りつけた相手へと、視線を移す。  おなじテーブルの向かい側で、朝比奈《あさひな》あかねは、すっごく睨《にら》んでいた。 「わ?」  いつものようにおでこ剥《む》きだしの髪型にしたあかねの、その眼鏡ごしのまなざしときたら、まるでナタのようであった。とても鋭く、とても重い。あかねはやはり耕太やちずるとおなじく制服姿だったが、胸元はしっかりナプキンで覆ってある。  あかねの手にも、カニがあった。  耕太の持つ毛ガニとは違う、タラバガニの、細い脚が。  と、テーブルにならべられた各自の皿を見れば、ぼってりとした身体に細かな毛を生やした、甘い身とカニみそのコクがうれしい毛ガニに、真っ赤にあざやかな甲羅に、濃厚な味わいの身を隠した花咲ガニ、そして長い脚に、カニかまじゃあない、本物の長い身を持ったタラバガニと、まさにカニ・ロック・フェスティバルなカニ祭り状態であった。 「えー……っと、朝比奈《あさひな》、さん?」 「なあに、小山田《おやまだ》くん。まさかとは思うけど、どうしていま、わたしに怒られたのか、わからないとか……いうつもり?」  あかねの眼《め》が、さらに鋭く、重くなる。  耕太はびくつきながら、うなずいた。 「……まわりをよく見なさい」  耕太は素直に従う。  ぐるりとまわりを見渡せば、すこし暗めの照明の下に、いま耕太たちが座るのとおなじ四角いテーブル席が、規則正しく、等間隔でいくつもならんであった。  横には窓があり、そこからは街の夜景が覗《のぞ》けたりもする。  照明の暗さもあって、なかなかにアダルティな空間だといえるだろう。  しかし、いまテーブルについているほとんどのお客さんは、アダルティなんて言葉とはかけはなれたものたちばかり……耕太とおなじ学校の制服に身を包み、首に白いナプキンをつけた、私立|薫風《くんぷう》高校二年生の生徒たちだった。  男子も女子も、みな夜景なぞ気にもとめず、ひたすらカニに夢中な様子。  耕太も夢中だったそのカニは、壁ぎわにずらりとならんだテーブルからとってきたものだった。銀色のトレイに山盛りとなった、毛ガニ、花咲ガニ、タラバガニの、塩ゆでやら丸焼きやら、いわゆる、バイキング形式の料理たち。カニ以外にも料理はいろいろあったが、やはりというか、人気はカニに集中しているようだった。トレイのカニ山はすぐになくなるが、すぐに従業員さんたちによって足されてゆく。 「なによ。べつにみんな、ただカニを美味《おい》しそうに食べているだけじゃないの」  耕太の代わりに答えたのは、ちずるだった。  ちずるはあかねの怒声に驚いたふりをして耕太に抱きついて、そのまま抱きつきっぱなしだった。おっぱーに収めていた耕太の顔を見おろし、「ねー」と同意を求めてくる。  耕太が、「う、うん」とうなずこうとした、そのとき。 「そう……カニを食べているんです、みんな」  あかねがいった。  その声ときたら、かすかに震えの走った、まるでなにかの感情を押し殺しているかのような声だった。まるで、いまにも爆発しそうな——。 「楽しい、楽しい、夕食なのに……どうしてそんなにいやらしいんですかっ!」  爆発した。 「せっかくの修学旅行なのに! 北海道なのに! 夕食はホテルでカニ・バイキングなんて豪華さなのに! なのに、きみたちは……小山田くんとちずるさんときたら! なんなの? もうあまりに日常がエロスすぎて、食事をするという行為ですらエロスになってしまうの? 答えなさい、小山田耕太に源《みなもと》ちずる!」  連続で爆発するあかね爆弾に、耕太はもう、ひたすらびくつくばかり。  そう。耕太はいま、修学旅行の最中だった。  修学旅行で、北海道にやってきていた。ただいま、修学旅行、初日。札幌市内のホテルにて、カニ・バイキング中。  飛行機に乗って、北海道へと飛んで……。  耕太にとっては、初めての動く飛行機である。すごくわくわく、ちょっぴり恐怖。まあ、耕太は昔、ハイジャックされて止まっている飛行機になら、いちどだけ乗りこんだことがあったのだけれど……ああ、フォックス仮面、フォーエバー。  午後には新千歳空港に着き、そこからバスで札幌市内へと入った。  バスから降り、それからは各班に分かれ、市内観光だ。  札幌市時計台を見て、すっごく街中にあるんだ、まわりはビルでごちゃごちゃなんだ……と思ったり、おなじく街中にある大通公園を歩いてみたり、テレビ塔にのぼってみたり、羊ヶ丘にいって、クラーク博士像の前で「少年は大志を抱くよ」ポーズを決めて、ちずるに抱きつかれ、「耕太はおっぱーに抱かれるよ」ポーズになったり。  楽しみながら、けっこう疲れながら、耕太たちは初日の観光を終えた。  夕方、集合し、ホテルにチェックイン。  そして、このカニ・ロック・フェスティバルだ。  生徒たちは歓声をあげ、もちろん耕太もあげて、我先にカニを奪いあい、各自のテーブルに持ち帰り、むしゃぶりついていたところ——。  なぜか、耕太はあかねに怒られた。  ど、どうしてだろ……。 「す、すいません、朝比奈《あさひな》さん。あのー……『いやらしい』って、なにがでしょうか。だってぼく、ただ普通にカニを食べていただけで……」 「そのカニの食べかたが、いやらしいっていってるんですっ!」  あかねは手に持っていたタラバガニの脚を、ばき、とへし折った。 「わわわ!?」  あまりの衝撃映像に、耕太はずっと自分に抱きついたままだったちずるに、抱きつく。ちずるは耕太をしっかり受けとめながら、あかねに尋ねた。 「うっわー……カニの脚って、けっこう硬いのよ? あかね、手、だいじょうぶ?」 「このエロスども、聞きなさい!」  ちずるの問いに答えず、あかねは折れたカニ脚をぶんぶんと振りまわしだす。 「『だ、だめなんだよ、耕太くぅん……』とか、『い、いけないのにぃ……』とか、『ら、らめぇ、らめなのぉぉぉ』とか、そんなエロスワードが、いったいなにをどうしたら普通にカニを食べているだけで飛びだすんですかっ!」  折れたカニ脚の先端が、耕太たちへ、びしっ、と突きつけられた。  あかねの顔は、真っ赤をとおりこして蒼白《そうはく》となっていた。ふー、ふー、と肩で息をしていたが……ぬぬ? と真横を向く。  横には、たゆらがいた。  たゆらは、あかねのとなりの席に座っていた。そこから、手に持った携帯電話を、ぐっとあかねへと向け、伸ばしていた。 「……なにをやっているの、源《みなもと》」 「いや、朝比奈《あさひな》さ、さっきの最初の、もういちどやってくんない? 『だ、だめなんだよ、耕太くぅん……』ってやつ。録音しそこなっちゃってさあ……『い、いけないのにぃ……』とか、『ら、らめぇ、らめなのぉぉぉ』はうまく録《と》れたんだけど」 「……ろ、録音?」  たゆらが、携帯電話を親指で操作しだす。  と、やたら情感のこもった『い、いけないのにぃ……』と『ら、らめぇ』が流れだした。  あかねは、眼《め》を大きく見開く。 「け、消して! 消しなさい、源!」  たゆらが音声の消去を拒否すると、あかねは殴りだした。  カニで。手に持ったタラバガニの折れた脚で。べちべちべちと。 「ふふ、ふふふ……ああ、そうだ、朝比奈。痛みをくれ……消せぬほど深い痛みを……愛と憎しみは表裏一体さ……ふふ、ふふふふふ」 「笑ってないで、消せー! このヘンターイ!」  涙目になったあかねの、カニ殴打は続く。  べちべちべち……しかしたゆらは、腕を組んで座ったまま、ひたすら笑うのであった。 「もう、耕太くんったら、いけないんだよ……? カニ、ナプキンもつけずに食べたりして……服、汚れちゃうでしょう?」  目の前の惨劇を隠すかのように、ちずるが、耕太を深く抱きしめてくる。  耕太の顔は、完全にぱいぱいぷーに埋《うず》まってしまった。  ……むふー。  耕太は、ひさしぶりの正調|ちちまくら《あまえんぼさん》に、人目があるのも忘れ、おぼれた。  ひさしぶり……本当に、ひさしぶりで……ああ……。  耕太が、望《のぞむ》とキスしたのがバレ、のーぶらぼいん打ちを喰《く》らったのが、およそ一週間前のこと。  それからずっと、〈あまえんぼさん〉はおあずけであった。  いや、〈あまえんぼさん〉どころか、それ以外の合体技も封印中で……耕太は、ちずるの怒りももっともだと思っていたので、ガマンした。  ガマンをした、が。  もういいかげん、ガマンも限界で……た、たまらん……たくらまかん砂漠……ほーたん! ほーたん! 「ち、ちずるふぁん……」 「うん、わかってる……今夜は……」  いっぱい、しようね……?  耳元でそうささやかれただけで、耕太の腰には衝撃が走りぬけた。  い、いっぱい?  おっぱーが、いっぱー……あうあうあうあうあーう!  耕太は、こらえた。  振りしぼり、こらえて、感謝した。  勝手に修学旅行についてきたちずるに、ありがとう……と。  だってちずるは、三年生なのだ。  そしていまは、二年生の修学旅行なのだ。  だから本当だったら、ちずるはこの場にいるはずがないのだ。三年生は学校で授業があるはずなのだし。  だのに——ちずるはいた。  飛行機から降り、空港にて点呼をとっていたとき、気づいたらちずるは耕太のとなりにいた。ちずるとは『おあずけ』の件もあり、お昼のお弁当や夕ご飯は作ってくれるものの、あとはそっけなくて、淋《さび》しい思いをしていた耕太は、驚くやらうれしいやら。すでに耕太たちが泊まるホテルに部屋の予約もとってあると聞いたときには、すこしあきれるやら。  もちろん、校則の番人たるあかねは、怒った。  怒ったが、聴く耳を持つちずるではない。  騒ぎを聞きつけ、校則の番人どころか処刑人たる生活指導委、八束《やつか》先生もあの鋭い三角形をした、黒目の小さな三白眼でやってきたが……。  なぜか、おとがめはなかった。  ぎろりとちずるを見て、「ふん」と鼻で笑うだけだ。あかねがいいんですか、先生と尋ねても、「ついてきてしまったものはしかたなかろう」というばかり。  ヘンだ。  なんかヘン……だけど。  ふかふかふー。  いま自分の顔面を包みこむ、焼きたてパンのごときやわらかさ、かぐわしさの前に、耕太はもう、なんかどーでもよくなっちゃった! だって、こ、今夜、こんこん今夜、これが、ぱいぱいぷーが、ぼ、ぼくのものに……ついに『おあずけ』が、解除に……。  あうあうあうあうあーう! 「ねー、ねー、小山田くーん」  と、ちずるの胸のなか、腰を突きぬけんとする衝撃に耐えていた耕太の、その肩を、だれかがつっついてくる。 「ふ……ふあい……」  ちずるのふくらみから、耕太は顔をずらした。なんていったってひさしぶりの〈あまえんぼさん〉、離れる気にはとてもなれなかったのだ。  肩をつつかれた方向である、椅子《いす》の後ろを向く。  ビデオカメラのレンズと、眼《め》があった。  それは、真後ろのテーブル席で、耕太とは背中あわせの位置に座る女子生徒が構えていた、ハンディタイプのビデオカメラだった。  ビデオを構えたこの彼女——毛先の跳ねたショートカットの、すこしばかり頬《ほお》にそばかすのある彼女は、佐々森《ささもり》ユウキ。通称、ユッキー。  耕太にとっては数すくない、普通に会話ができる異性のクラスメイトであった。  ほかに話せる相手といったら、あかねぐらいなものか……なぜって耕太は、学校内では『エロスカイザー』だの『M・C・耕太(揉《も》みすぎだよ・乳を・耕太)』だの、さんざんな異名を与えられてしまうほどに、性に対してどん欲な男だと思われていたのだから。  まあ、しかたないんだけどね……。  いまだって耕太は、みんなの前だというのに、ちずるの胸のなか、イケナイ衝動に身を焦がし、腰を震わせ……ああ、サイテーだ、ぼくって……。  耕太の異性による反応として、わかりやすいのはユウキのとなりの女性だろうか。  長い黒髪をきっちりとした真ん中わけにした、ちょっぴりきつめな顔だちの彼女は、ユウキの親友である高菜《たかな》キリコ。通称、きーちゃん。  彼女は、おもしろいことを求めるあまりに、耕太にも物怖《ものお》じせず接触してくるユウキを、よくたしなめていた。『妊娠するから!』と。  そんなキリコの、耕太に対する反応ときたら——。  眼《め》を大きく見開き、口元を両手で覆いと、じつにひどい……と思いかけ、あれ、それにしたってちょっと反応がすごすぎるような? と耕太は眼をぱちくりとさせる。 「あのねー、小山田くん」  ユウキが、カメラを構えたまま話しかけてきた。 「ちずるセンパイとのね、人間の二大欲求である食欲、性欲をどうじに満たすおそるべきカニおぱプレイに興じているところね、すっごく申し訳ないんだけどさー」  ユウキの構えるカメラのレンズが、耕太とちずるから、その奥へと向く。  耕太はレンズの向きをなぞり、後ろを見た。  テーブルの真向かい、正面の席に視線をやって——。 「おおおおお!?」  声をあげてしまう。  たゆらが、テーブルに突っ伏していた。  料理が載っている皿に、顔面からのめりこんで、だらんと腕を広げるその姿は、まるで食事中に力つき、眠ってしまったかのようだ。  いや、事実、眠っているのかもしれない。永遠の眠りに。  なぜって、突っ伏したたゆらの頭には、カニの脚が深々と突き刺さっていたのだから。  それも、何本も。  さらに、またもう一本——。 「エロス、禁止……」  との乾いた声とともに、あかねが手に持っていたタラバガニの脚を、いきおいよく振りおろした。たゆらの頭が、どすっ、という鈍い音を奏でる。  あははははー、とユウキが笑った。 「いやー、このままだとさー、朝比奈《あさひな》さん、犯罪者になっちゃうかなー、なんて……もう、手遅れかなあ? ねえねえきーちゃん、こういうのって、ジャーナリストのジレンマっていうのかな。目の前で事件が起きそうで、自分はそれを止めることができたかもしれないけど、止めてしまうと、衝撃映像は得られない……うーん、むずかしいよねー」 「このおバカ! 人として、クラスメイトの犯罪行為は止めてあげなさい!」  ぺしっ、とキリコがユウキの頭を平手でかすめるように叩《たた》く。 「あ、あかねさーん、やめて、もうたゆらくん、動けないからっ!」  さらにもう一本、カニ脚を振りあげたあかねに、たまらず耕太は叫んだ。 「え、衛生班ーっ! メディック、メディーック!」  まわりのだれかも叫ぶ。  あかねが、はっ、とびくつき、眼をしばたたかせた。  いまにも突きたてんとしていたカニの脚を眺め、首を傾《かし》げる。 「あれ……? わたし、いま、なにを……ん? 源《みなもと》、どうしたの?」  あかねが問いかけるも、奇妙な生け花の剣山と化したたゆらは、返事をしない。 「……成仏しなさい、たゆら」  ちずるが、なむなむと拝みだした。 「ち、ちずるさーんっ!?」 「やだなあ、耕太くん。冗談だよ、冗談。本気にするなんて……あ、ほら、雪花《ゆきはな》! 早くきて、このバカを看《み》てやってよ!」  ちずるが、遠くを手招く。  手招いた先には、白衣の女性がいた。  夕食時のサスペンスに、騒然と……あれ? あまりしてない? さすがはカニの魔力というべきか、耕太たちのまわりのテーブル席以外、カニに夢中で騒ぎには気づいていないようだった。そんな、カニに襲いかかる生徒たちでひしめくテーブルのあいだをぬけ、彼女はこちらへとやってくる。  彼女の髪は、紫色をしていた。  正しくは、黒のなかに蒼《あお》を秘めた色。そんな髪をポニーテールにまとめ、ボタンをとめず前を開けた白衣のすきまに、タイトな黒スカートを覗《のぞ》かせた女性……それは、まぎれもない、あの雪花そのひとだった。  雪花。  ちずるの母、玉藻《たまも》の経営する温泉旅館〈玉ノ湯〉で、従業員のまとめ役を務めていた女性。その正体は、雪女であり、また、玉藻に仕える忍びでもある。  彼女は、およそ三ヶ月前の夏休み明けに、新任の保健師として学校にやってきた。  玉藻に仕えているはずの雪花が、保健師としてやってきた理由は、不明だった。耕太たちがいくら訊《き》いても、答えてはくれない。  それどころか——。 「ちずるさん。わたしの名前は『雪花』などではないと、なんどいえばわかるのですか?」  雪花は耕太たちのテーブルへとやってくるなり、そういった。  はいはい、とちずるが返す。 「『雪花』じゃなくて、『雪野《ゆきの》花代《はなよ》』さん……だったっけ? わかったから、雪野センセー、さっさとこのバカ看てやってよ。このままあかねに前科がついたらかわいそうだし」 「え? ど、どうしてわたしに前科なんかがつくんですか、ちずるさん?」  あかねは凶器であるカニ脚を持ったまま、尋ねてきた。どうやら覚えていないらしい。 「んー? なんでもない、なんでもない……っと」  ちずるはあかねに生返事で答えながら、身体を前に伸ばす。  テーブルにうつぶせたまま動かないたゆらが、それでもしっかりと握りしめていた携帯電話を、指を一本、一本、引きはがして、ぬきとる。  画面を見つめ、なにごとか操作した。かちかちかち。 「……ん、よし。これで音声、消去完了」 「こちらも完了です」  たゆらの顔を横に向け、まぶたをぐりんと開き、瞳孔《どうこう》をペンライトで照らし見たり、脈を探ったり、頭の傷の様子を確かめていた雪花《ゆきはな》が、いった。 「見た目ほどたいしたことはありません。ほうっておいても平気でしょう」  保健師、雪花が述べた診察結果に、耕太は、はーっと息をつく。 「ああ、よかった……」 「あのね、耕太くん?」  と、ちずるが耳元でささやいてくる。 「わたしたちは妖怪《ようかい》なんだよ? ニンゲンの女の子の、しかもタラバガニの脚ごときの攻撃で、どうにかなるわけがないでしょ?」 「それはそうかもしれませんけど……」  耕太は、斜め前方の席で突っ伏したままのたゆらを見た。  頭にたくさんのカニ脚を生やし、テーブルに倒れまま、動かないたゆら。  どう見ても、どうにかなってしまったような気が……刺さっているカニ脚、けっこう深いし。いや、でも、ちずるさんと雪花さんがだいじょうぶだというなら、きっと……。  ふと、耕太は思った。  視線を、たゆらのそばに立つ雪花へと向ける。  どうして……雪花さんは、ここにいるんだろ?  雪花は、たゆらの治療——ではなく、あれ……? と凶器のカニ脚を見て、なにごとか思いださんとするあかねのケアに当たっていた。雪花の格好が修学旅行先だというのに白衣のままなのは、まあ、妖怪なのだからすこしズレているのだとして。  保健師って、修学旅行先にまでついてくるものなのだろうか?  いや、そもそも、どうして雪花は薫風《くんぷう》高校へ保健師としてやってきたのだろうか?  これはいったい、なにを意味しているんだろう……考えてみれば、八束《やつか》ほか教師たちのちずるへの態度……勝手に修学旅行についてきたのに、叱《しか》りもせず、追い返しもしない態度にしたって、なにかがおかしいような……。  もしかして、敵?  美乃里《みのり》をはじめとした、ちずるを狙《ねら》う敵の襲撃が、近いということでは——。 「あれ? 望《のぞむ》、なにやってるのよ、あなた」  ちずるが、声をあげた。  耕太は、自分を抱きしめたままのちずるがあげた問いかけの声に、もの思いから覚める。ちずるにならって、望を見た。  本来、耕太たちが座るテーブルは四人がけの席であり、耕太、ちずる、あかね、たゆらで定員だったが、まあそこはそれ、テーブルの横、通路側に椅子《いす》をくわえることで、ひとりぐらい増やすことは可能であった。  その増やした席に、望はいた。  椅子《いす》に座り、ぬぼーっとしていた。  いつも食事は三人前、その気になれば十人前だっていけちゃう望《のぞむ》の前に置かれた皿は、白いまま。まったく汚れてはいない。  狼《おおかみ》の妖怪《ようかい》だから、舌でぺろぺろ舐《な》めちゃった……のではなく。  たしかに望はよく食べ終わった皿をぺろぺろするのだが、いまはカニの甲羅すら、そこには残っていなかった。つまり望は、まったく食べていなかったのだ。  代わりに、望は小さな骨をくわえていた。  それは、かつて耕太と望が初めて出会ったとき、耕太が食べたスペアリブの骨。  いわばふたりの出会いの記念品ともいえる骨ではあるが、もう一年も前の話で、だから耕太は、てっきりもう望が食べてしまったのかと思いこんでいた。が、どうやらずっと大切に保管していたらしい。  なぜか望は、一週間前からずっとその骨をかじかじしていた。  一週間前……耕太が、望と初めてキスしてしまった日だ。望に、『耕太にとって、わたしはなに?』と問われた日。それから毎日かじっていたため、すっかり小さくなってしまった骨を、望は修学旅行の最中もかじっていた。学校に集まったとき、空港に向かうとき、飛行機に乗っているとき、札幌市内ヘバスで向かうとき、観光しているとき、耕太がおっぱーに抱かれていたとき……ずっと、かじかじかじかじと。 「——ん?」  ようやく望は反応を見せた。  かきかきと骨を歯でかみかみしながら、耕太とちずるのほうを向く。 「ふぁひ?」 「なに? じゃあないでしょーが。いつも人の三倍は食べて、そのくせちっとも太りやしない、なんていうの、おなじ女という立場としてはすっごくムカツクあなたが、どうしてカニをガン無視? もしかしてぽんぽん痛いの? それとも、カニ、苦手?」  ふるふる、と望は首を横に振った。 「んーん? べつにおなか、痛くないし、カニ、ニガテじゃないよ」 「だったらどうしてカニ、食べてないわけよ」 「カニ、食べるよ?」  望は、骨を口から外す。ポケットからハンカチをだし、大切そうに包みこんだ。ボケットにしまい、愛《いと》おしそうに、ぽんぽん、と外側から叩《たた》く。 「——よーし、いくぞー」  と、いうなり立ちあがり、望は、びよーん、と跳んだ。  助走もなしで、腕と脚をまっすぐにしてそろえた、まるで人間ロケットのように跳び……くるくると回転して、床に降りたつ。  バイキング料理がならべられた、テーブルの前へと。  しかも、各種カニが山盛りとなったトレイの前……望が、手を伸ばす。  喰《く》らいだした。  両手でカニをつかんでは、口に放りこみ、甲羅ごとばきき、と噛《か》み砕き、身を喰らう。毛ガニ、花咲ガニ、タラバガニ。望《のぞむ》に差別はなかった。まったく気にせず、つかんだものを喰らう。当たるを幸い、なぎ倒す。いや、つかむを幸い、喰らい倒す。 「わー、犹守《えぞもり》っ! おまえ、ひとりで食うなよ!」 「そうよ、望! わたしたちのぶんも……きゃっ!」 「あ、あぶない! 下手に手をだせば、その手を喰われるぞ!」 「うう……もはやおれたちは、犹守が食い終わるのを待つしかないのか……それはあたかも、ライオンのおこぼれを狙《ねら》うハイエナのごとく!」  望の独壇場であるカニ・トレイを囲んで、なげき、悲しむ、薫風《くんぷう》高校二年生、一同。 「……余計なこと、しちゃったかな」  その様子を見て、ちずるが、ぽつりと洩《も》らした。 「でも望、なーんか様子がおかしいのよねー。それも、あの日から……ねー、耕太くん?」  ちら、と胸のなかの耕太に視線をくれる。  耕太は、黙って正面にあるぱいぱいぷーに、ばふっと顔面を埋《うず》めた。  ひっしとちずるにしがみつく。おあずけは……もう、これのおあずけだけは……〈あまえんぼさん〉のおあずけだけは……! ぷるぷる。震えた。      2  ちずるが、楽しげに鼻歌を奏でながら、ホテルの廊下を歩く。  学校指定のジャージにスリッパなんて格好で、おなじ姿をした女子生徒たちに「あー、ちずるセンパーイ」と手を振られ、上品に振り返し、「エロスカイザー……じゃなくて、小山田くんですかー?」と尋ねられ、「もちろんそうよー?」とにこやかに答えた。  部屋のドアがならぶ廊下を、たりらりらんとゆき。  とある部屋の前で、立ち止まった。  ポケットから鏡をとりだして、さっ、さっ、と髪を手櫛《てぐし》で直す。にへら、と微笑《ほほえ》み、よし、とうなずいてから、手の甲でドアを打ち鳴らした。のっく、のっく。  ややあって、ドアは開く。 「なんだ……ちずるかよ。どーした?」  顔をだしたのは、頭に包帯を巻いたたゆらだった。 「どうしたって……わたしがこの部屋にくる理由ったら、もうわかりきってるでしょーが。いっとくけど、おまえへの用事はまったくないからね」 「わーかってるよ、耕太だろ? だけどおまえ、耕太は……」 「なに、いないの? お風呂《ふろ》? おトイレ? お買い物?」 「いや、だから……」 「あー、もう、どいたどいた!」  ちずるはたゆらを強引に押しのけ、部屋のなかへと入ってゆく。  室内では、ジャージ姿の男子たちが、すでにぐちゃぐちゃになったふとんの上、思い思いにくつろいでいた。突然の異性、しかも先輩であるちずるの来襲に、ナニを見ていたのかあわててテレビを消すもの、ふとんになにか隠すもの、さまざまな反応をあらわす。 「……ん? この匂《にお》いは」  ちずるは、すんすん、と匂いをかぎ、鼻筋に皺《しわ》を寄せた。 「あなたたち……」  と、顔をしかめ、後ろからおっとりと追いかけてきたたゆらを睨《にら》む。 「まあまあ、かんべんしろよ、ちずる。旅先でのちょっとしたガキの遊びだ、遊び。オトナの階段、のぼるってやつ? いっとくけど、耕太は吸ってねーぞ。けっ、あいつは普段、もっといいものでも吸ってるんじゃねーの? なあ、ちずるお姉さま」 「もっといいものって、やだ、わたしのおっぱい? もう、この子ったら!」  いやん、と照れつつ、ちずるはたゆらの頭をべちんと引っぱたく。  ぐおおおお、とたゆらは包帯の巻かれた頭を抱え、うずくまった。 「うう……なあ、ちずる。おれ、この頭、いったいどうしたんだ? なんかだれに訊《き》いても、おびえた顔するばっかりで教えてくれねーし……それに、写真なんだかなんなんだか、なにか携帯電話に大切なものを記録したような気がするんだけど……なにもねーし?」 「そんなことはどーでもいーから。わたしのおっぱい吸いすぎ注意の耕太くんは?」 「だから耕太は、望《のぞむ》と……なあ?」  たゆらは部屋の男子たちに呼びかけた。みな、「ああ」「うん」とうなずく。 「——なに? 望?」  そのとき、ちずるから洩《も》れた声は、じつに低いものだった。  ふとんの上にうずくまっていたたゆらは、びくん、と震える。 「な、なんだよ! お、おれに怒るなよ、おれは悪くねーぞ! だってしかたねーだろ、いきなり望がやってきてさ、『ちずるが呼んでるよー』っていって、耕太を連れていったんだから……そ、そんな眼《め》で見ないでくださーい!」  ちずるは、まばたきすらせず、ぶるぶると身体を震わしながら、じっとたゆらを見おろしていたが……。  やがて、頭を抱え、うずくまったたゆらの脇《わき》を、すっと通りぬけてゆく。 「あ、あれ? ち、ちずる……? ちょ、ちょっと待った!」  たゆらが頭をあげ、呼び止めると、ちずるはドアノブに手をかけ、ドアを開くところだった。その姿勢のまま、立ち止まる。 「……なに?」 「いや、その……テキトーなとこで、許してやれ……よな? 望にも、それから、耕太にも、さ。だってさ、この前、めずらしく耕太とケンカしたっぽいときはさ、なんかもう、すっげー家で荒れまくりでさ……ぶっちゃけ、おれに対する被害が、尋常じゃなく……」 「今回も……覚悟しておけ」  そう低い声で告げ、ちずるは部屋からでていった。 「くっ……耕太め、おまえのせいで、毎回、毎回、おれにしわ寄せがきて……くそ、ちずるとつきあうんだったら、きちんとしっかりつきあえってーの! うう……ううう」  静まりかえった室内に、たゆらのすすり泣く声が、いつまでも響くのであった。      ★ 「望さん……ど、どうして?」  耕太は、お風呂場《ふろば》にいた。  お風呂場といっても、ちょっとやそっとのお風呂場ではない。  大浴場である。  ホテルの、広々とした大浴場……しかも、女湯側の、だ。  すでに耕太は、さきほど男湯側の大浴場には入っていた。ちずるの『今夜はいっぱいしようね』発言に期待で胸をふくらまし、不覚にもべつの部位をもふくらましてしまって、いっしょに入浴していたクラスメイトに目撃され、『さ、さすがはエロスカイザー!』と、なぜかみんなにひれ伏されたりしながら、夜に備え、すみずみまで磨きあげていた。  ちなみに、男湯と女湯で、とくに違いはないようだった。  広さも変わらず、ライオンの口からだっばーとお湯がでている、ちょっとしたプールのような湯船も変わらない。壁には各自身体を洗うためのシャワー、ミラー、蛇口に椅子《いす》が何十人ぶんもならび、隅には湯おけが積みかさねられてあった。みなおなじだ。  そしていま、耕太は、裸《ネイキッド》。  剥《む》かれたのだ、望《のぞむ》に。  部屋にやってきた望の、『ちずるが呼んでるよー』との言葉に、耕太はたゆらに「けっ」と吐きすてられながら、疑いもなくあとをついていった。  ついた先が、この大浴場、女湯側。  あー、まあ、ちずるさんならアリかな……と思っていたら、むりやり望によってなかへと連れこまれ、幸いにも無人だった更衣室で、耕太は剥かれた。ジャージを、シャツを、トランクスを、昔読んだ羅生門の下人ばりに、ばっさばっさと。  すっぽんぽんにされた耕太は、タオル一枚すらも渡されず、浴場へと放りこまれる。  尻《しり》もちをつき、いたた……とうめく耕太の元へ、望もすぐにやってきた。  全裸《ネイキッド》で。  腰に手を当て、いっさい隠さぬ、ある意味では男らしい姿で。  しかし望が男ではないのは、そりゃあもう、見ただけでわかる。望は、ちずるのなめらかでやわらかく、豊かな肉体とは違って、透けるような白い肌に、手も足も、腰も、そして胸もか細く、まさに触れれば壊れてしまいそうな、いたいけな身体だった。  いってみれば、幼いのだ。幼いゆえに、神々しいのだ。  かといって、耕太がなにも感じないのかといえばもちろんそんなことはなく、尻もちついた耕太の眼前にある、望の世界つるるん滞在記なノー・ジャングルの奥地が、つるるんなゆえにすっかりあらわあらわとなっていて、その峡谷が……。 「の、望さん……か、隠してください!」  耕太はまぶたをかたく閉じた。さらに顔を横へと向ける。 「ん? どーして? どーしてわたし、隠さなくちゃいけないの?」 「ど、どうしてって、それは……」 「だって耕太、とっくにわたしのぜんぶ、見ちゃってるじゃない。耕太の部屋で、わたしのぜんぶ、奥の奥まで、おっぴろげーって、見たでしょ?」  はい、たしかに見ました。  学生寮の自室で、なんどもそういうことになりましたし、また、自分の奥の奥だって見られちゃいましたよ! あっはっはー! 耕太は眼《め》を閉じたまま、うなだれる。 「それに、耕太のは、もう……」 「おほおおお、おほっ!?」  すさまじい刺激が、耕太の中心をつらぬく。  耕太は尻もちついたままの腰を、引こうとして果たせなかった。  だってだれかが、つかんでいたからネ! 「の、望《のぞむ》、さ……」 「ほら、耕太の、すっごいことになってるよ? なんだか、いままで見たことがないくらい、大きくて、硬くて、太くて、そびえたっていて……ちょっと、コワイくらい」 「そ、それは、ずっとちずるさんに『おあずけ』されていたから……って、こ、コワかったら放してください! う、うひぃ、おひぃ! や、やさしくさすらないでぇ!」 「ヤダ。はなさない」 「や、ヤダ? な、なぜ?」  思わず耕太は、眼《め》を開け、望を見つめてしまった。  耕太の前にしゃがみこんでいた望も、その銀色の瞳《ひとみ》で、まっすぐにこちらを見つめていた。見つめながら、しっかりとつかみ、握りしめていた。 「そんなことより、耕太。答え、ちゃんとでた?」 「こ……答え?」 「うん、答え。『耕太にとって、わたしはなに?』ってやつ」  どきーん。  耕太の心臓は、きゅっと縮まった。  その反応は、どうやらいま望がつかんでいるものにも、あらわれてしまったらしい。 「もー、耕太、まだなのー?」  望は、ぷう、と頬《ほお》をふくらませていた。  つかんでいたものに対する握りかたも、ぎゅう、と強くなった。おおおお、と耕太はうめく。 「しかたないなあ、耕太は……」  握りが弱まって、はああああ、と耕太は息をつくことができた。 「じゃ、しよっか」 「す、する? するって、なにをですか?」 「だからー、|ちちまくら《あまえんぼさん》にー、|おしりぺんぺん《お し お き》にー、|尾てい骨責め《ひみつのケーキ》にー、|○○○《おまたくにくに》にー、|○○○○○《おくちのこいびと》にー、みんな、ちずるにしたこと、ぜんぶ」 「そ……それは、前にもいわれましたけど、だいたい望さんともしていますっ!」  事実、そうであった。 〈おしおき〉も〈ひみつのケーキ〉も、〈おまたくにくに〉も、だいたいのプレイはすでに望ともいたしているのであった。〈ひみつのケーキ〉なんか、考案者は望なのだし。 「でも、してないの、あるでしょ。たとえば、〈おくちのこいびと〉とか……」 「え……えーと?」 「してみれば、わかるかもしれないよ? ちずるがしたこと、わたしもして、身体のカンケーが、ふたり、おなじになれば……ちずるとわたしの差がなくなれば、耕太のなかで、わたしがどういうソンザイなのか、わかるかも。ね?」  望《のぞむ》の頭が、沈みこむ。  あーん、と口を開けた。 「い、いや、だって、その……あ、そーだ、いつだれがここに来るかわかりませんしっ!」  そう、なんてったって、ここは女湯なのである。  幸い、いまはだれもいなかったが……いつ女子生徒たちが入浴にやってくるかわからないし、一般のお客さんだっているのだ。男の耕太が女湯にいるのは、れっきとした犯罪行為であろう。さすがに耕太は、まだ警察のご厄介にはなりたくなかった。 「だいじょーぶだよ、耕太。だってケッカイ、張ってあるもん」 「け、ケッカイ? ケッカイって、あの『結界』のことですか? 人を寄せつけなくする、目に見えない壁のこと……」  うん、といまにも唇が触れそうな位置で、望がうなずく。 「だから、ジャマものはだれも入ってはこれないんだよ?」 「で、でも、結界って……たしか、妖術《ようじゅつ》ですよね? 望さんって、妖術なんて使えたんですか? いや、ちずるさんが前に結界を張るところなら、なんどか見たことがあるんですけど……でも、望さんは……」  望は、狼《おおかみ》の妖怪《ようかい》、人狼《じんろう》である。  ゆえに走る、跳ぶ、殴る、蹴る、噛みつくなど、身体を使う能力についてはすさまじいものがあった。おそらくは人の姿のままでも、オリンピックにでれば金メダルでオセロができちゃうくらいに……それほど、左手に銃を持つ宇宙海賊なみにすごかった。人狼の姿になれば、さらに能力は数倍にもなるはずだ。  ちなみに、この人間時における能力については、各妖怪によっても個体差があるらしく、たとえばちずるやたゆらのような化《ば》け狐《ぎつね》だと、人の姿のままでは一般人とさほど変わりがなかった。と思えば桐山《きりやま》は人の姿のままでも[かまいたち]の能力を自在に扱えたりと、本当、妖怪によってかなり違うのだった。  と、望の身体能力はかなり高い。  しかし、精神能力についてはどうか。  すくなくとも耕太は、望が術を使うところなんて、いちども見たことがなかった。おそらくではあるが、ちっとも使えないのでは……と思う。 「もう、ダメだなあ、耕太は。わたしといるのに、ちずるの話をするなんて」  望が、つかんだまま、いった。 「ふえ?」 「ちずるが前にケッカイがどーとか……あのね、耕太。オンナといっしょにいるときに、ほかのオンナのことを口にするなんて、ルール違反なんだよ? オトコとオンナの、ルール違反。ルール違反には……おしおきしなくちゃ……わたしのことだけ考えられるよーに」  あーん、と望が口を大きく開けた。 「え……お、おおおっ!?」  ぬぽん、と。  耕太は、ひどく熱いものにすっぽりと包みこまれる。こ、これは、これは——。 「ぬぅらああああああーーーーーー! こんのバカイヌがああーーーーーーっ!」  それは、魂の叫びだった。  ちずるだった。  脱衣場からのガラス戸を開け、浴場に飛びこんできたちずるの叫びが、エコー効きまくりで大浴場全体に響き渡ったのだった。  はー、はー、はー。  ちずるは、肩で息をしていた。  さんざん耕太たちを捜しまわったのだろう、汗は流れ、髪も、着ているジャージも乱れきっている。大浴場には結界を張ってあるとの望《のぞむ》の言葉を、耕太は思いだした。 「……耕太くん」  ぎろん、と耕太を見つめてくる。  その、冷たく、熱く、激しく、哀《かな》しく、なんかもうあらゆる感情がないまぜとなった暗黒色の視線に、耕太は震えた。シベリア超特急が、背筋をノンストップの暴走特急で駈《か》けあがってゆく。助けて、セガール! 「あ、あのですね、ちずるさん、これは……うひっ」  ちゅぽん。  耕太を包みこんでいた熱いものが、ぬけていった。 「……ちずるが怖がらせるから、ほら、耕太の、ちっちゃくなっちゃった」  耕太の前にしゃがみこんでいた望が、口元を手の甲でふきふきしながら、いった。 「——望ッ! きさまッ!」  どす、とちずるが足を一歩、踏みだす。  下はタイルなのに、ちずるの足はスリッパなのに、床は割れた。ヒビが入った。  暗黒|妖気《ようき》だろうか、なにやら黒いオーラのようなものを全身から噴きださせながら、タイルをがっしがしと割りながら、ちずるは近づいてくる。人の姿のままなのに。 「覚悟はできてるンだろうなッ! むろん死の覚悟だッ! 三途の川の渡し賃、六文銭をおまえの薄汚い|○○○《ぴー》に詰めこンでやるッ! 二度と戻ってこれないようにッ!」 「あわ、あわわ、あわわわ……」 「ん。耕太、一時サヨナラ、ね」  震えるしかできない耕太のそばで、望がいった。 「はい?」  間合いに入るなり、いきおいよく手を伸ばしてきたちずるの横を、望はすりぬけていつた。駆けだし、「あばよー、とっつぁーん」といい残して、脱衣場へと消え去ってゆく。 「ま……待てー、るぱーん!」 「ゼニガタ警部……じゃなくてちずるさんも、待って!」  耕太は、望《のぞむ》を追いかけんとするちずるの腰に、後ろからしがみついた。 「……なんて……ぃ」 「え?」  とりあえず惨劇は防げた……としがみつきながらほっと息をついた耕太の耳に、ちずるのか細い声が届く。 「ち、ちずるさん、いま、なんて……?」 「——耕太くんなんて、だいっ嫌い」  その言葉は、さくっと耕太の胸に突き刺さった。  嫌い……ちずるさんが、ぼくのこと、だいっ嫌いって……耕太はよろめき、後ろに倒れる。片手をついてタイルに横たわり、がーんがーんがーんと衝撃に打ちのめされた。 「見て、耕太くん」  がーんがーんがーんと打ちのめされながら、耕太は見た。  見あげた先では、ちずるが、立ったままジャージの上着のジッパーを、いきおいよく引きさげていた。上着を脱ぎすて、ティーシャツも裾《すそ》からまくりあげ、首からぬきとる。  見事なふくらみと、それを包む純白のぶらをあらわにした。  続けて、ちずるはジャージの下も脱ぎだす。  やはり純白のぱんちーをあらわにして、ついに、上下ともに下着姿となった。 「これ……白い下着、耕太くん、好きでしょ? 大好きでしょ? シンプルなやつ」  耕太は、ぶんぶんとうなずく。 「だけど、白は汚れがめだっちゃうから、わたし、あまり好きじゃないのね? 耕太くんを前にすると、わたし、すぐ汚しちゃうし……最近、耕太くん、すごくうまくなって、なおさらだし……だけど、つけてきたの! 白い、シンプルなデザインの、コットンの安いブラ&ショーツ、つけてきたの! 耕太くんに、悪いことしたと思ったから……い、一週間も、『おあずけ』しちゃったから……今日は、旅先だし、いっぱいいっぱい仲直りしようって、そう思って……なのに、なのになのになのに耕太くんはっ!」  ちずるが、眼《め》を大きく見開いた。  涙が、ぼろぼろとあふれだしてゆく。頬《ほお》をすべり、こぼれ落ちた。 「の、望と、望とあんなこと……ううん、べつに望としてたのがいけないってんじゃない。ただ、わたしに隠れて、こそこそと……それが、それが……うー! ううー!」  ぎゅっ、と唇を噛《か》み、眼をかたくつぶる。涙はもう、とめどなく流れ、止まらない。 「——小山田耕太!」 「は、はい!」  タイルの上に正座した耕太の前で、ちずるはぶらの前に手をやった。  純白のぶらじゃーを、豪快にむしりとる。  そして、二歩、三歩とさがってゆく。耕太はちずるのつぎの行動を察し、正座した太ももの上に置いた両の手を、ぎゅっ、と握りしめた。 「うおおおおお、ろーりんぐ……のーぶら、ボイン、打ちィー!」  ちずるが駆けだし、耕太に激突する寸前で、くるりと一回転した。  その遠心力を利用し——高速で振りまわされたぱいぱいぷーがうなりをあげ——。  Dogooooooon!!  耕太の顔面を打ちぬいた。  ダッシュしてのろーりんぐ・のーぶらボイン打ちを決めたちずるは、そのいきおいのまま耕太につっこむ。ともにタイルの上へと倒れた。 「ばかー! 耕太くんの、ばかー!」  倒れた耕太の上にのっかって、くっついたままぽかぽかと叩《たた》く。くっついたままなので、ちっとも痛くはなかったが。 「ばか、ばか、ばか、ばか、ばか、ばか……ば、か……え?」  手を止め、耕太を見た。  視線を自分の後ろ……お尻《しり》のあたりへとやる。  ちずるのお尻には、耕太と重なって倒れたとき、ちょうどうまいぐあいに、太もものあいだ、足のつけ根の部分にはさまったものがあった。それが、腰をひねって振りむいたがため、ぐりんと刺激され……びびるびびるびー♪ 「え……こ、耕太くん? うそ?」 「ふみまへん……ひふるはん……」 「え? いやだって、耕太くんがこんなに早いはずが……ま、まさか、もしかして? 耕太くん、まさかあれからずっと、『おあずけ』されてからずっと、ガマンしてたの? じ……自分ですることすらなく?」 「だって……ぼく、ちずるさん、泣かしちゃったから……傷つけちゃったから……せめて、ガマン、しなくちゃって……ば、罰として……」 「な……なんてことを! だって耕太くん、ほとんど毎日してたじゃない! してたというか、わたしや望《のぞむ》にされちゃってたじゃない、しぼりとられていたじゃない! なのに、一週間もガマンするだなんて……そんな無茶して、死んじゃったらどうするのよ!」 「し、死にはしないと思いますが……」 「ごめん、ごめんね、耕太くん! して! たくさんして! わたしの身体で、スッキリして! いいのよ、もうガマンしなくて……ほら、おっぱいだよ! ニコチン中毒ならぬ、ニコぱい中毒の耕太くんに、極上おっぱろでぃうす!」  ちずるが、耕太の上にその、おっぱーをのせてきた。  ニコぱい中毒であるところの耕太は、吸う。ぼくはぜったいに、禁煙、もとい禁乳はできないなあ、と思いながら、吸う。  ちうちうちう。うーん、極上だ……。 「ん……んん……あ、あのね、耕太くん? わたしもね、その、一週間、ずっとガマンしてきたから……ほ、ほら……もう、すごいことに……」  ちずるが、耕太の手をとる。  腰を浮かし、導いた。  わお。すっごいことになっていた。 「ね……脱がしてくれる? 耕太くん」  耕太はちうちうしながら、ずりずりとちずるのぱんちゅをさげる。  太もものあたりまでさげると、もう手が届かない。えいや、と耕太は足の指先を引っかけ、一気に引きおろした。 「わあ、耕太くん、ワイルド! んー、好き! 耕太くん、好き好き大好き!」  ぎゅー、とちずるが抱きしめてくる。  耕太もぎゅー、と抱きしめ返した。口では吸った。ちうちうちうちう、ちゅ〜。      ★  およそ、一時間後……。  大浴場に張られっぱなしであった結界の存在に、砂原《さはら》、八束《やつか》、そして雪花《ゆきはな》の薫風《くんぷう》高校三教師は、ようやく気づく。  破らずに、結界のなかへと侵入した。破れば、相手に気づかれるからだ。  現場が女湯側だったということもあり、男の八束はいちおう外で待機、砂原、雪花の女性陣だけで進む。砂原はすでに砂使いの大妖《たいよう》、〈御方《おかた》さま〉へと変じ、雪花も忍者刀である小刀を片手に、警戒しつつ、脱衣場を見てまわった。  浴場へと歩を進めると——。 「ぬおっ!? な、なんと!?」 「ち、ちずるさま!?」  ちずるが、いた。  全裸で、うつぶせになって、お風呂場《ふろば》のタイルの上に倒れていた。その姿ときたら、全身、なにやら得体の知れない液体で汚されていて……〈御方さま〉、雪花のふたりはいそぎ、ちずるの元へと駆けよる。 「ぬ……」 「まさか……この匂《にお》いは……」 〈御方さま〉と雪花は、顔を見あわせた。なぜか、〈御方さま〉はまぶたを半分だけ閉じた、いわゆる疑わしげな顔つきとなり、雪花は頬《ほお》を紅《あか》く染め、うつむく。 「耕太くぅん……いいのぉ……もっとして、いいのよぅ……」  にたにたしながらそんなことを洩《も》らしたちずるに、〈御方さま〉と雪花は深い深いため息をつく。大浴場には、ちずる、〈御方さま〉、雪花以外、だれもいなかった。  そう、三人以外、だれの姿も——。      3 「の、望《のぞむ》さーん、どこへー! ぼくたち、どこへいくんですかー!」  耕太と望は、階段を駈《か》けあがっていた。  ホテル内の階段ではない。  外、ホテルの外壁に備えつけられた、ジグザグになった金属製の階段……いわゆる非常階段だ。  その非常階段を、耕太は望にお姫さま抱っこされて、駈けあがっていた。  耕太も望もジャージ姿で、裸でこそなかったが、北海道の秋は、本州の秋とくらべるとやはりとても涼しい。おまけに外なものだから夜風は吹きっさらしで、望の階段をのぼる速度もかなりなこともあり、なんだか耕太は風邪を引いてしまいそうだった。  風邪と、いえば。 「ち、ちずるさんも置いてきぼりで……あのままじゃちずるさん、風邪を引いて」  望は答えない。  あれは、ちずると何戦終えたあたりだったか……あまりに夢中だったので、あまり耕太もはっきりと覚えてはいないのだが、たしか、第八戦を終えたあたり、ちずるが三度目の失神をしたときに、望は戻ってきた。  大浴場に、ひょいっとあらわれ——。  「……ふえ? 望ふぁん?」と顔をあげた、いろんな意味でぐっちゃぐちゃの耕太を見て、「……くさい」と鼻をつまんだ。  気づいたら、耕太は望に抱えあげられ、湯船へと叩《たた》きこまれていた。  あっぷあっぷする耕太を、望はむりやり洗い、脱衣場へと連れこみ、タオルでがしがしと拭く。服を着せたら、お姫さま抱っこして、廊下へと飛びだした。ちずるは、お風呂場《ふろば》にほったらかしにしたまま。  耕太を抱きかかえて望は走り、廊下の突きあたりにある非常ドアを開け、外の非常階段へとでて。  あとは、無言で駈けあがるだけ。  いくら耕太が話しかけても、尋ねても、望はひとことも答えてはくれなかった。 「の、望さ……」  非常階段もだいぶ上までのぼって、耕太がまた尋ねたとき、望は跳んだ。 「わわっ!?」  夜のなかを、高々と跳躍し、すとんと降りたつ。  突然の浮遊感に、思わず望にしがみつき、かたく眼《め》を閉じてしまっていた耕太は、おそるおそるまぶたを開けた。 「わー……」  自然と、ため息がこぼれてしまった。  どこまでも広がる闇《やみ》のなか、無数の光が、連なり、集まり、固まりと、まるで星雲のごとく輝く、このありさまは……。  夜景だった。  ホテル屋上のフェンスごしに、札幌の街の夜景が覗《のぞ》けていたのだった。  耕太は、ふわー、と声をあげ……はっ、と気づく。 「……み、見とれてるばあいじゃない!」  我に返り、まだ自分を抱えあげたままの望《のぞむ》を見あげた。 「の、望さん、もしかして、これをぼくに見せたかったんですか……っと、お?」  望は、んじっ、と耕太を見おろしてきていた。  いつもはあまり表情の変わらぬ望が、目つきをすこし細くしている。それだけで耕太には、望が怒っているのだとわかった。それも、けっこう強く。 「えっ……と、あの?」 「耕太は、やっぱり大きなおっぱいが好きなんだね」 「うえ?」 「そして、もさもさも好きなんだね」 「も……もさ?」 「だってわたし、見てたもん。ダツイジョーから、ずっと見てたもん。ちずるとあんな、なんどもなんども……耕太、どーして? どーしてちずるみたいに、わたしにもしてくれないの? わたしのおっぱい、ないないぷーだから? それとも、つるつるだから?」 「い、いや、それは……っていうか、え? 望さん、ずっと脱衣場にいたんですか?」 「……もう、いいもん」  望が、耕太を抱きかかえていた腕を、ぱっと離した、  そのため、耕太は背中から屋上のコンクリートの上へと落下する。鈍い音とともに、腰を打ちつけてしまった。耕太はうずくまり、おおお……と腰を押さえる。 「耕太……答えは?」 「は、はい?」 「『耕太にとって、わたしはなに?』だよ。あれだけちずるとして、頭、スッキリしたでしょ? 答え、もうでたでしょ? だしながら、答えもだしたでしょ?」  望は肩を持ちあげ、手は腰にやり、足は肩幅ほどに開きと、なんだか怒るときのあかねのような姿勢となっていた。なんとなく、耕太はうずくまってしまう。 「そ、それが、そのー」 「……まだ、でてないの?」  望の目つきが、さっきまでのさりげない細さではなく、はっきりと細くなった。 「ご、ごめんなさい!」  耕太は、その視線から逃れるように、さらに姿勢を低くする。ぺったりと地面にへばりつくその姿は、ほとんど土下座だ。 「……もう、わかった」  耕太は、はっ、と顔をあげる。  その声に、なんだか湿り気があったからだ。  望《のぞむ》は泣いていた。  いや、べつに涙を流してなんかはいないし、それどころか瞳《ひとみ》をうるませてすらいない。ただ望は、いつものように、なにを考えているのかよくわからない、ぬぼーっとした顔つきで、耕太を見おろしているだけだ。  なのに、なぜか一瞬……耕太には、望が泣いているように見えた。 「耕太は、本気になってはくれないんだね」  ぬぼーっとした顔のまま、望が口を開く。 「本気になって、わたしの質問について考えてはくれないんだね。本気になって、わたしのこと、考えてはくれないんだ……あくまで、耕太にはちずるだけ。ちずるのおっぱいだけ。ちずるのおっぱいに対する、十分の一すらも、わたしのことなんか、考えてなんか……だったら、もう、いいよ」 「の、望さ……」  望は、ジャージのポケットに手をつっこんだ。  白いハンカチを、とりだす。  夜目にもあざやかな、そのハンカチを開き……なかから、小さな骨をとりだした。あのスペアリブの骨だ。耕太と出会った記念品だ。  望は、骨をくわえた。  こきかきこき……とかじり。  やがて、ばきごきがり……とかみ砕く。  最後に鳴ったのは、くきゅん、と喉《のど》が小さく動く音だった。 「……これで、おしまい」  そういって、望は一瞬、うつむく。 「だから、ばいばいね、耕太」  顔をあげたとき、そこには微笑《ほほえ》みがあった。  まぎれもない微笑みだ。眼《め》は細く、唇はやわらかく曲がりと、なんの悲しみもない、完全なる親愛の微笑みだ。なのに、耕太はひどく恐ろしくなった。まるで自分の身体ぜんぶが、耕太を責めさいなんでいるかのような、そんな恐ろしい気持ちに。  これは……後悔?  もしかして、ぼくはいま、すごくとりかえしのつかないことを——。 「の、望さ」  名前を呼ぼうとしたときには、すでに望は駆けだしていた。  耕太に背を向け、駈《か》け、そして跳ぶ。  耕太からはだいぶ離れた、屋上のフェンスぎりぎりへと着地した。 「ま、待って、望《のぞむ》さん、ぼく、ぼくは……え?」  望を追いかけようとして、耕太は止まった。  人がいたからだ。  いままでまったくその存在に気づかなかったが、望が跳んだ先のフェンスにはふたりの人が、いた。耕太に背を向けたままの望のそばに、男と女が、立っていた。  男女とも、年のころは、耕太や望より上。  大人といってもいいふたりの男女は、白い着物をその身にまとっていた。  首まわりの襟や、腕のでている袖《そで》など、着物の縁の部分はジグザグな模様で彩られており、腰には黒い腰ひもを締め、足はズボン——のようなかたちをした、おそらくは袴《はかま》。黒い……ブーツだろうか? 靴を履いていた。いままで耕太が見たことのない、じつに不思議な格好ではあった。  それよりなにより耕太の目を引いたのは、ふたりの頭、そして腰から生えたものだ。  ふたりは頭頂部から、獣の耳を生やしていた。  腰からは、獣のしっぽを。  それは、ちずるの狐《きつね》のしっぽとは違う、すこしごわついた、銀色の毛なみだった。そう、耕太にとっては、よく見覚えのある獣のもの。  そう思ってふたりの髪を見れば、となりにいる望とよく似た、銀色の髪だった。  肌は、望とよく似た、白い肌。  もしかして、いや、まちがいなく。  ふたりは、人狼《じんろう》だった。  望とおなじ種族の、人狼——。  なぜか耕太は震えた。自分で自分の身体を抱き、震えを抑える。 「姫さま……」  人狼の男が、望に声をかけた。  しかし、その眼《め》は耕太に向けたまま、離れない。  なんとも冷たい眼だった。冷たいというより、熱がなかった。かつて望とキスしてしまったとき、本気で怒ったちずるの眼もかなりの感情のなさだったが、それよりひどかった。鋭く切れあがった男の眼のなかの瞳《ひとみ》ときたら、まるで無機質なガラス玉のようだった。  男の髪は長く、黒い布を、まるでハチマキのように巻くことで押さえている。  そのハチマキの下、ガラス細工の眼を、彼はずっと耕太へと向け続けていた。望に話しかけながらも、変わらず、あたかも獲物を前にした狼《おおかみ》のごとく、まばたきすらせずに視線をまったく動かさずと……ん?  姫さま……? 「い、いま、望さんのこと、姫さまって? ええ? えええ?」  男の目つきのあまりの異質さに、その事実に気づくのが遅れてしまった。  どうじに、女の動きにもだ。  人狼《じんろう》の女は、人狼の男とは、望《のぞむ》をはさんで、となりにいた。彼女は、なにも武器を身につけてはいない男とは違い、腰に小さな剣を差していた。  耕太が気づいたときには、女は剣をぬき、構えていた。  両刃の短刀の切っ先が、耕太のほうを向く。  一瞬、耕太は身構えるも、とくに襲いかかってくることもなく、彼女はただ、剣の切っ先をこちらに向けているだけのようだ。  夜風に、女の髪がそよぐ。  彼女の背から、二本の細く長い三つ編みが覗《のぞ》いた。  女も男とおなじでその銀髪は長かったが、彼女はハチマキを巻くことではなく、三つ編みにすることでまとめているようだった。さらに頬《ほお》を見れば三本の青い線が、化粧なのだろうか、ほどこしてあり、狼《おおかみ》の耳には小さなリング、首には青い玉の首飾りをしている。  なんとなく、呪術師《じゅじゅつし》っぽい?  だってほら、と耕太は思った。いまも耕太に向けて剣を構えたまま、彼女はなにごとかぶつぶつと呟《つぶや》いていたのだから。呟き……まさか……呪文《じゅもん》……え?  まずいかも、と耕太が気づいた瞬間、呪文は終わりを告げる。  どうじに、耕太の視界は黒く塗りつぶされていた。 「わー!? わわわー!?」  あまりの驚きに、耕太はやみくもに腕を振りまわした。  と、どうやら、視力を奪われたわけではないらしい。  手をばたつかせるたびに、うっすらとだが闇《やみ》が薄れたからだ。おそらく、黒いもやかなにかに、すっかり包みこまれて……て……て……Zzz……。 「お、おおおお!?」  気がついたら、耕太の意識は遠のいていた。  倒れかけるも、なんとか足をふんばって、しのぐ。  こ、このもやのせい? 耕太は自分の腕で口元を覆った。肘裏《ひじうら》の部分で、鼻、口を覆い、なるべく息を吸わないようにして、逃れる。力の入らない足をどうにかこうにか引きずり、最後は転がって、自分を包みこむ黒いもやから、なんとか脱出することに成功した。  なぜだろう、身体に力が、ぜんぜん入らない。  立ちあがることもできず、その場に屈《かが》みこんだ。横目で確認すると、さきほどまで耕太がいた位置に、やはり黒いもやがある。くらつく頭をどうにかあげ、視線を前へと向けた。  屋上のフェンス際に立つ、人狼の男、女、そして望の三人を見あげると——。 「……信じられない」  女が、声を洩《も》らす。  耕太に黒いもやの呪術《じゅじゅつ》をかけた彼女の眼《め》は、男ほどではないが、やはり鋭く、冷たかった。その切れあがった眼を、驚きにだろう、大きく見開いていた。 「わたしの術が、通じないなんて……」 「だが事実だ。レラ、おまえの術はやつには通じなかった」  ガラス眼《め》の男が、歩きだす。  まだ身体に力が戻らず、動けない耕太へと向かって、足早に。  どうやらあの黒いもやには、麻酔の効果があったらしい。逃れようにも、全身、だるくてしかたがない。奥歯を噛《か》みしめる力すら、なんとも頼りなかった。 「待って、マキリ」  男が耕太との距離をなかばまで詰めたとき、レラと呼ばれた女が、呼び止めた。 「お願い、もういちどだけやらせて。わたしにも、巫女《みこ》としての誇りがある」 「誇りよりも、いまは使命だ」  あいかわらず耕太を無感情に見すえたまま、振り返らずマキリは答えた。 「ここには、あの〈葛《くず》の葉《は》〉がいるのだということを忘れるな。すでにやつらは、おまえの張った結界にも気づいているかもしれない。いつ我らの存在にも勘づくか……」 「だけど……」 「どっちも、ちょっとまった」  マキリとレラのいいあいを制したのは、望《のぞむ》だった。  望は、レラの横で、いまだ耕太にその小さな背中を向けたままだった。が、いつのまにかマキリ、レラとおなじく、人狼《じんろう》の姿へと変化《へんげ》していた。  頭から生えた狼《おおかみ》の耳を、ぴくく、と動かす。 「……うるさいのが、くる」  望の言葉に、マキリ、レラの狼の耳も、ぴくく、と動いた。 「なるほど」 「かしこまりました、姫さま」  マキリがすばやく望の元へと戻り、レラは寄りそう。 「じゃ、いこ」  望の号令に従って、三人は後ろのフェンスへ、音もなく跳びのった。  ぐっ、と膝《ひざ》をたわめ——。  跳びあがった。空に浮かぶ月へ、星空へ。  そして、眼下に広がる、夜景へと。あっというまに望たちの姿は、狼の耳、しっぽを生やしたシルエットと化して、札幌の街へと消えてゆくのだった。 「の……望さん……望さ」 「耕太くーん!」  ホテル内から屋上へとでる金属製の扉をどかんと開け、耕太の声を打ち消したのは、ジャージ姿でやってきたちずるだった。 「ああん、もう、耕太くん、好き! 大好き、死ぬほど好き! いや、さっき、あんまり耕太くんのむさぼりかたがすごすぎて、わたし、本気でちょっと死にかけたりもしたんだけど……でもいい! いっそ殺して! ちずるを、耕太くんの愛でブチ殺しちゃって!」  あらわれるなり、ちずるは、いやん、ばかんと身をくねらせだす。 「はー……でもさっきの耕太くん、本当にすごかった……うん、たまには『おあずけ』もいいかなー、なんて……やだ、じょーだんだよ、じょーだん! わたしの身体はもう、二十四時間いつでもどこでも、耕太くんに全箇所、無料大開放中でーっす!」  すぱーん、と両腕を広げた。  広げたまま、ん? と首を傾《かし》げる。 「耕太くん……どーしたの? そんなところに屈《かが》みこんで」 「……さん、が」 「え? なに?」 「望《のぞむ》さん、が」 「あー、それ、望! まったく、あのドロボウイヌ、耕太くんにこっそりとちょっかいをだそうなんて……まあ、べつに? わたしの見ている前で耕太くんにちょっかいをだすぶんには、それはそれで興奮するし、スパイスの一環として大目に見てやらないこともないんだけど……って、そうそう。さっき、耕太くんの愛を全身に刻んでもらったのはいいんだけど、目が覚めたらわたしひとりで置いてきぼりだし、目の前には砂原《さはら》と雪花《ゆきはな》がいるし、あいつら、なぜか大浴場に結界を張ったの、わたしだと思いこんでるしで、もうたいへん……って、ねえ、耕太くん? わたしの話、聞いてる?」  耕太は、ほとんど聞いていなかった。  立ちあがり、歩きだす。  まだ黒いもやの効果が残っているのか、ふらついてしまった。あわてて駆けよったちずるに支えられながら、フェンスへと向かう。  望たちが消え去った、フェンス。  がし、と金網をつかみ、耕太は見おろす。  夜景を。  そして思う。なんだろう、これ、と。  胸に、ぽっかりと穴が空いていた。大きな丸い穴だ。すうすうと、やたらに風のとおりのいい穴だ。おかげで、耕太は寒くて寒くてしかたがなかった。ぬくもりが欲しかった。  穴が空いたのは、きっと、望が耕太に『ばいばい』を告げたとき。  そして望が姿を消したとき、穴は大きくなった。いまもまた、大きくなっている。どんどん、どんどんと、大きく。この穴は、どこまで大きくなるんだろう。 「望さんが……いなくなった……?」  それも、ぼくのせいで。  自分でいっておいて、耕太はまったく現実味がなかった。  だがしかし、実際、耕太の前に望の姿はない。あるのは、ただの夜景だけ。美しいだけの、ただの街の光の集まりだけ。ただ、それだけだった。 四、消えたぷりんせす      1  翌朝……。  ホテルの食堂は、ゆるやかなにぎわいを見せていた。  昨日、カニ・フェスティバル……ならぬ、カニ・バイキングがおこなわれた場所である。昨日は夜景が広がっていた窓から、いまはさわやかな朝の光が入りこむこの空間で、薫風《くんぷう》高校二年生一同は、あくびをしつつ、制服姿でバイキングの朝食をとっていた。  修学旅行初日で寝つけなかったのだろうか、みな、寝不足らしい。  それでも、しょぼつく眼《め》をこすりながら、本日、修学旅行二日目の観光地である小樽について、語りあっていた。水族館や美術館、オルゴール館にガラス館など、これからバスで向かう小樽の地の観光名所について、話題はつきない様子だった。 「ねーねー、きーちゃん。すっごく楽しみだよねー、石原裕次郎記念館!」 「……あのね、ユッキー? 石原裕次郎のファンって、たぶんこの学校ではあなたぐらいなものだと思うよ?」  テーブル席のひとつで、佐々森《ささもり》ユウキと高菜《たかな》キリコも会話をくり広げていた。  パンやサラダ、ソーセージなどが載った皿を押しのけ、観光案内のパンフレットを広げていたユウキは、ぷう、と頬《ほお》をふくらます。 「えー、そんなことないよー! だってユウちゃん、カッコイイもん! 夜霧よ今夜もありがとうなんだよ、嵐《あらし》だって呼ぶんだよ! でもわたしが好きなのは、『スパルタ教師・くたばれ親父』かなー。ユウちゃんが野球の審判でねー……」 「いや、わたしにそんな熱く語られても。だいたいにして、石原裕次郎をユウちゃんなんて呼ぶ女子高生自体、やっぱりユッキー、あなたぐらいのものだと」 「じゃあ、なにー? ボスって呼んだほうがいーい?」 「だから、その『太陽にほえろ』自体、いまどきの女子高生は観たことがないから」 「あー、もう! きーちゃんのいぢわる!」  声を荒げ、ユウキはいきおいよく振りむく。 「ねえ、のんのん! あなたは知ってるよね、ユウちゃん! 石原裕次郎さん!」  後ろの席で食事していた女子生徒に、話しかけた。 「……ん?」  話しかけられたのは、ちずるだった。  なぜかちずるは、頭に銀髪のカツラをかぶっていた。粗雑な、百円ショップで売られているような、けばけばしい色をした短髪のカツラだ。  さらにその上には、葉っぱが。  銀髪のカツラをかぶり、さらにその上に葉っぱをのせ、ぬぼーっと、いまにもよだれをたらしそうな顔つきで、制服姿のちずるは食事をとっていたのだった。 「ちょっとちょっと、ユッキー……」  キリコが、ユウキをたしなめる。 「いきなりそんなこといわれても、ほら、望さん[#「望さん」に傍点]、困ってるじゃない。そもそも、その『のんのん』って、なに?」 「え? 望《のぞむ》さんの愛称だよ? 『のぞむ』だから、のんのん!」 「またあなたは、ひねりのない愛称を……それ、昨日考えたんでしょ」 「ねえ、のんのん! ユウちゃん、知ってるよね、ラブラブだよね!」  望と呼ばれて、ちずるは訂正するでもなく、ただぬぼぼーっと見つめ返していた。  やがて、うなずく。 「……だいじょうぶ。あなたはシなないわ。わたしがマモるもの」  ユウキの顔に、満面の笑みが浮かんだ。 「ほら、きーちゃん! のんのんもいってるよ、だいじょうぶだって! ユウちゃんは永遠に不滅だって! わたしたちの心のなかに、生きてるんだよ!」 「えっ……と、いまなにか、望さん、余計なこともいってなかった?」  キリコが、考えこむ。  ちずるは「ん?」と首を傾《かし》げていたが、やがて、元通り、前を向いて食事を始めた。  となりに座っていた耕太《こうた》は、はー、と息をつく。  じつに心臓に、よくない。  さきほどから耕太は、どきどきが止まらなかった。  この姿のちずるが、廊下を歩いているとき、食堂に入ったとき、バイキング形式でならぶ料理から、ロールパン、マーガリンにジャム、サラダ、コーヒーをとったとき、そしていま、後ろの席のユウキとキリコに突然、話しかけられたとき……耕太はずっと彼女のそばにいて、ひたすら肝を冷やしまくっていた。  ちずるは、望に化けていた。  昨夜、望はいきなり姿を消し、そのままホテルに戻ってはこなかった。それをごまかすため、化《ば》け狐《ぎつね》であるちずるに化けてもらっていたのである。  望は、人狼《じんろう》。つまり妖怪《ようかい》だ。  そして、薫風《くんぷう》高校における妖怪とは、そのほとんどが囚人だった。  本当だったら妖怪用の刑務所に入れられるところを、人の世界での生きかたを学ばせるため、薫風高校へと入学させられた妖怪たちである。いってみれば、仮出所? なのに修学旅行先で行方不明なんて、逃亡したと思われてもしかたがないだろう。  とくに望の場合、ほかの妖怪たちとはすこし事情が違う。  望が薫風高校にやってきたのは、更生のためではなかった。  元〈葛《くず》の葉《は》〉だった兄、犹守《えぞもり》朔《さく》に連れられて、やってきたのだ。  それは〈葛《くず》の葉《は》〉の一勢力による、ちずるの調査のためだったが……朔《さく》自身は、耕太、ちずると闘うことで思うことがあったのか、任務を放棄、〈葛の葉〉からも脱退した。が、望《のぞむ》はひとり、学校に残っていた。耕太を好きになってしまったがために……。  だから、望は本来、薫風《くんぷう》高校にいていい存在ではないはずなのだ。  かつて耕太は、望から明かされたことがある。  強力な妖怪《ようかい》である人狼《じんろう》の赤子であったため、人間に対する安全のために刑務所に入れられるところを、朔に拾われ、救われたのだと。  いまのところ、〈葛の葉〉の一員で、学校の妖怪の監視員である砂原《さはら》や八束《やつか》に、望を追いだしたりするつもりはないようだったが……さすがに旅先で行方不明になりましたは、シャレになっていないだろうと、耕太は思う。  ゆえに、ちずるの望への変化《へんげ》だった。  とりあえずごまかそう。ごまかしているあいだに、なんとか望を捜しだそう。昨夜も、耕太たちは夜の札幌を捜しまわったが、望を見つけだすことはできなかった。耕太はちずるに憑依《ひょうい》してもらい、妖狐《ようこ》の姿になって七本しっぽ状態で気配を探ってもみたが、無駄だった。手がかりひとつ、なし。そうこうしているうちに、朝がきてしまった。  とにかく、耕太たちにはいま、時間が必要なのだ。  なお、望に化けているあいだ、ちずるは急病ということで、部屋にこもっているということになっていた。不幸中の幸いというべきか、昨日のお風呂場《ふろば》でちずるがぬちょぬちょ事件を起こしたおかげで、風邪を引いたといういいわけにはなかなかの信憑性《しんぴょうせい》が——。 「ねえ、望?」  その声に、耕太はびくく、と震えてしまった。  手に持ったロールパンを、皿の上に落としてしまう。 「うん? どうしたの、小山田《おやまだ》くん」  テーブルの向こうからうかがってきたのは、いまちずるに「ねえ、望?」と話しかけた、あかねそのひとだった。 「い、いえ、ちょっとこのパン、まだ生きていて……こいつめ、活きがいいなあ!」  耕太はロールパンを引っつかみ、口に放りこむ。  むりやりなかに詰めこみ、もきゅもきゅと頬《ほお》を動かす耕太を、あかねはしばらく怪訝《けげん》そうに見つめていた。が、やがて、望に化けたちずるへと視線を向ける。 「望……いったいどうしたの?」  その眼鏡ごしのまなざしは、じつに鋭かった。耕太は震えた。 「な、なにがだよ、朝比奈《あさひな》」  表情を引きつらせながら尋ねたのは、あかねの横に座るたゆらだ。  なお、たゆらの頭には、まだ昨日のカニ・アタックによる包帯が巻かれたままであった。 「なにがって……見るからに望、おかしいじゃない。源《みなもと》、わからないの?」 「だ……だから、な、なにが?」  あかねのつぎの言葉を、耕太、たゆらともに、固唾《かたず》を呑《の》んで待つ。  ああ、やっぱり、と耕太は内心、思った。  じつはちずるは、化けるのがかなりひさしぶりらしいのだ。  たゆらによれば、およそ十年ぶりだとか……と、いうか、そもそも耕太には、ちずるはあくまでちずる自身にしか見えていないのだ。ちずるがただ、銀髪の安っぽいカツラをかぶって、さらに葉っぱをのせ、ぬぼーっとしているようにしか、見えない。おかげでさっきから、心臓が冷えっぱなしであった。  ちずるにいわせると、耕太にはちずるの術がかなり効きにくいらしい。  あまりにふたりの結びつきが強すぎると、そうなるとかなんとか……『つまり、愛が強すぎるってことね!』と、照れたちずるに耕太は背中を引っぱたかれた。痛かった。ちなみに、ちずるが頭に葉っぱをのせている理由は、『化けるときの伝統』だとか。 「だから……」  あかねが口を開く。たまらなくなって、耕太はうつむき、ぎゅっと身を縮めた。  当事者であるはずの真横のちずるは、平然とした様子でフォークを使い、もぐもぐとサラダを食べていたが……。 「なんだか望《のぞむ》の食べかた、変じゃない?」  ぴた、とちずるのフォークの動きが、止まる。 「だって望、いつもはもっと豪快に食べてるでしょ? そんな、フォークを使って、上品にサラダを食べるなんて、まるでちずるさんみたいで……だいたい、望は野菜、あんまり食べないじゃない! お肉ばっかりのはずよ? なのに今朝は……おかしいわよ、ぜったい。ねえ、小山田くんも、源《みなもと》も、そう思わない?」 「う……あ……そ、そうですね! どうしたの、望さん!」 「ま、まったくだな! おい、望! もっと豪快に食え! 手づかみだ、手づかみ!」  耕太とたゆらは、大笑いした。  あーっはっはっは、と笑って、はー、とため息をつく。  つ……疲れる……。 「……わたしはたぶん、サンニンメだとオモうから」  ちずるが、ぬぼーっとしたまま、いった。 「は? 三人目?」  ぎゅっ、と目元をしかめたあかねに、たゆらがあわてて割りこむ。 「き……きっと望、疲れてんだよ! ほら、修学旅行だし! 昨日の夜、きっとアレだ、部屋のやつらと『ねえ、望ー。あなた、だれが好きなのー?』『んー……ヒミツー』『いいじゃない、教えてよー。じゃあさ、じゃあさ、三、二、一でさ、いっしょにいおうよ』『えー……ホンキ?』『ホンキもホンキ。じゃあ、いくよ? 三、二、一……』とか遅くまでやってて、だから寝不足で……とにかく、そういうことなんだよ!」 「……望とわたし、おなじ部屋だったんだけど」 「え?」 「昨日は望《のぞむ》、なんだか遅くまで帰ってこなかったような気も……」 「って、朝比奈《あさひな》!」  たゆらが、詰め寄る。がっしとあかねの両肩をつかんだ。 「な、なによ、いきなり」 「や、やったのか! 部屋のやつらと、お互いの好きな相手、いいあうやつ、やったのか! だれだ、だれなんだ、朝比奈の好きな相手は! お父さんに正直にいいなさい!」 「その『お互いに好きな相手』うんぬんは、源《みなもと》、きみの妄想でしょーが! 朝っぱらから、この妄想おバカ! なに? ついに妄想と現実の区別がつかなくなったの!?」  いいあううち、なんだか望の件はどうでもよくなったらしく、いつしかあかねは、最近のたゆらの生活態度に対するお説教を始めていた。  たゆらくん、ナイス、と思いつつ、耕太はとなりのちずるを、ちら、と見る。  さっきからちずるさんは、いったい、だれの真似を……?  どうも、望さんとはちょっと違うよーな……と、耕太が頭をひねっていたとき、あかねにお説教されていたたゆらが、がたた、と激しく椅子《いす》を鳴らす。  どうやら、身体を震わしたらしい。たゆらは、眼《め》を、大きく見開いていた。耕太は、たゆらの視線を、振りむいて追いかけ——。  やはり、がたた、と椅子を鳴らしてしまった。  後ろに、いたからだ。  砂原《さはら》、八束《やつか》、そして雪花《ゆきはな》の、三教師が。  正確にいえば雪花は教師ではなく、保健師、もっと正確にいうと養護教諭なのだが、とにかく、三人とも、ただの教師ではない。  薫風《くんぷう》高校における妖怪《ようかい》の監視員で、どうやら〈葛《くず》の葉《は》〉のなかでもけっこうエライひとらしくて、その身に、九尾《きゅうび》の狐《きつね》にも匹敵する力を持つ妖《あやかし》、〈御方《おかた》さま〉を宿す、砂原。  やはり〈葛の葉〉の一員で、すご腕の妖怪ハンターらしい、八束。  九尾の狐である玉藻《たまも》の配下で、雪女の忍者だったりする、雪花。  この三人にかかれば、『十年ぶりに化けた』ちずるの変化《へんげ》なんて、手もなくあっさりとバレて……望は無断逃亡の罪で薫風高校を追放、妖怪の刑務所へと……。  耕太のみぞおちには、きゅ〜〜〜〜っと力がこもってしまった。  砂原は、見ていた。  丸眼鏡、太い三つ編みに、赤い長袖《ながそで》のセーター、白いパンツルックなんて砂原が、望に化けたちずるを、いつものにこやか〜に細めた眼で、じーっと。  修学旅行先だというのに、普段どおりの黒スーツを着て、やはりオールバックにし、愛用の竹刀を持った八束はその鋭い三白眼で、蒼《あお》いポニーテールに、白衣とタイトなスカート、黒いストッキングといった姿の雪花は普通の顔で、それぞれちずるを見つめていた。  三教師の視線を浴びながら、ちずるが答える。 「……ゴメンなさい。こういうとき、どんなカオをすればいいか、ワカラないの」  ち、ちずるさん! と耕太は胸のなかで叫ぶ。  だからそれは、いったいだれの真似なんですかー!  耕太にとっては、無限とも思える時間が流れ……ふっ、と鼻で笑ったのは、いったいだれだったのだろうか? 「笑ったら〜」 「いいと……」 「思いますよ、犹守《えぞもり》さん」  砂原《さはら》、八束《やつか》、雪花《ゆきはな》が、続けて答えた。  そのまま、三教師は去ってゆく。  た……助かった?  耕太は椅子《いす》にもたれ、それだけでは足りず、ずるずるとさがった。どうやら、最大の難関を、越えた……。そう耕太が思った、瞬間のことだった。 「はい、望。とってきてあげたわよ?」  ちずるの前に、山盛りのカニ・サンドイッチが載った皿が、どん、と置かれたのは。  置いたのは、笑顔のあかねだった。 「はーい、のんのん〜」 「望さん、たしか卵、好きだったよね?」  ユウキ、キリコも、それぞれウインナーやらオムレツやらを皿に山盛りにして、持ってくる。どん、どん、と置かれた。 「ほら、望《のぞむ》。しっかりいつものように食べて、元気に修学旅行、楽しみましょう!」  あかねが、にっこりと笑う。  耕太がそっと横目でうかがうと、十人前はある食事を前に、ちずるの顔からは、完全に血の気が引いていた。 「あら……どうしたの、望。やっぱり身体の調子が?」 「えー、のんのん、病気なのー!?」 「いけない。雪野《ゆきの》先生を呼ばなくちゃ……」  引く。  ちずるの血の気は、どんどん引く。すでに真っ青だ。ぐびり、と喉《のど》を動かし……。      ★  バスが、マフラーを派手に震わしながら、動きだす。  二台、三台と連なって、ゆっくりとホテルから離れだした。耕太たちの泊まったホテルは札幌市内、街中にあったため、道路のまわりには、ビル、建物が建ちならんでいた。だんだんと加速しながら、バスは街なみをぬけてゆく。  最後尾のバスの背が、道路の彼方へと消えて——。  ようやく耕太たちは、物陰から姿をあらわすことができた。  耕太、ちずる、たゆらの三人は、バスに乗りこむ寸前で、姿を消した。そうして、ホテルの建物すぐそばにあった花壇の陰に、ずっと屈《かが》みこんで隠れていたのだった。  ちなみにそのとき、耕太はクラスメイトの男子に協力を頼んだのだが……。 『ち、ちずるセンパイ絡みなのか? ——イエッサー!』  なぜか、おびえた顔つきで承知してくれた。  どうしてあれほど怖がっていたのか……たゆらに訊《き》いても『昨日、ちずるがおまえを捜しに、おれらの部屋にきたとき……いや、なんでもねえ……』と鬱《うつ》っぽく表情を暗くするだけで、ちっとも要領を得なかった。  直接、ちずるに訊こうにも。  耕太は、花壇の陰に屈みこんだまま、立てないでいるちずるを見た。 「う……うう……き、気持ち悪いぃぃ」  うっぷ、とちずるはあやうい声を洩《も》らした。  けっきょく、ちずるはぜんぶ食べた。  あかね、ユウキ、キリコが持ってきたカニ・サンドイッチ、ウインナー、オムレツの山を、すべて、食べきった。いくら、望に化けたことを怪しまれないためとはいえ……耕太は彼女の横に屈み、背を撫《な》でる。 「ちずるさん……だいじょうぶですか?」 「こ、好意が人を殺すって、まさにこのことだね、耕太くん……うおえっぷ」 「ヘッタクソな変化《へんげ》の術なんか使うからだろ……まさに自業自得だぜ」 「うっさい!」  ちずるが、まだ頭に包帯をつけたままのたゆらを睨《にら》みあげた。 「きちんとみんな化かしたでしょーが! あかねだって、望《のぞむ》のクラスメイトたちだって、砂原《さはら》だって、八束《やつか》だって、雪花《ゆきはな》だって! なにか文句あるわけ!」  怒鳴り、すぐにうっぷ、と口元を押さえた。 「つーかよ、そもそも、ちずるが望に化ける必要があったのか? 雪花さんあたりに事情を説明して、うまく処置してもらうことだってできたんじゃねーの?」 「うう……雪花は、いまいち信用できないでしょーが……どうしてこの学校にやってきたのか、まだわかってないんだし……」 「信用できないって、雪花さんは玉藻《たまも》さんに仕えてるひとじゃねーか。それって、自分の母親が信用できないってことだぜ? なんだってこう、親子で仲が悪いんだか……」  たゆらはため息をつきつき、肩をすくめた。 「まあ、とにかく、ここから移動しようや。おれたちがバスに乗ってないのなんて、すぐにバレちまうだろーしさ。そうなれば、このホテルに待機してる〈葛《くず》の葉《は》〉にも連絡がいくだろうしな。見回りなんかされて、あげく見つかったりしたら、最悪だ」 「え? このホテルに〈葛の葉〉のひと、残ってるんですか?」  耕太は、背後にそびえるホテルを見あげた。 「あったりまえだろーが。あのな、ちずるは風邪引いて、部屋にこもってることになってんだぞ? そのちずるを見張る役目のやつがいなくて、どーすんだよ」 「あ……そっか」 「だ、だいじょうぶよ……わたしの術は、完璧《かんぺき》なんだから……」  弱々しく、ちずるは立ちあがった。おなかを押さえ、えづきながら。  あわてて耕太は肩を貸す。 「完璧って、部屋のドアに木霊の術をかけただけだろ? 呼びかけられたら、ただ『はい』ってちずるの声で返事するだけの。部屋に内線でもかけられたら、終わりじゃんか」 「バカね……部屋に内線をかけてでなかったら、普通、どんどんってドアをノックするでしょ? そして怒鳴るでしょ? 『源《みなもと》ー! いるかー!』って。そしたら『……はい』てか細く返ってくるんだから、これはもう、ああ、風邪がひどくて内線にでることすらできないんだなって、そう思うに決まってるじゃない。本当、完璧だわ」  はー、とたゆらは長々、息をつく。 「あのなあ、いちおう監視役のやつらも、〈葛の葉〉なんだぜ? 前から思ってたけどさ、ちずるは幾《いく》ちゃんや八束以外の学校の教師を、ちょっと舐《な》めすぎじゃねーか? あいつら、きっとほとんどが〈葛の葉〉なんだろーからさー……」  話しながら、耕太たちはホテルの前から離れた。  なるべく陰になるようにして、歩道を歩く。  横道が見えたら、すぐに入った。横道をぬけ、通りにでたら、またすぐ横道に入る。 「それにしても……」  と、耕太はちずるに肩を貸して歩きながら、尋ねた。 「ぼくたちいま、ちずるさんにいわれたとおり、バスには乗りませんでしたけど……」 「だってそうしないと、望《のぞむ》のこと、捜せないじゃない……たしかに、小樽観光にはすっごく未練が残るけどね……ああ、ユウちゃん、会いたかったなあ……」 「ゆ、ユウちゃん? まさかちずるさんも、裕次郎ファン? そ、それはともかく……あの、望さんを捜すために残ったのはわかるんですけど、ぼくたちがバスに乗らなかったら、それはそれで問題があるような気が」 「そりゃー問題だろーな」  まるでひとごとのように、前をゆくたゆらがいった。 「だってよ、ちずるはいま、望になりすましているわけだろ? そのちずるがいないんじゃ、けっきょく望もいないことになるわな。それどころ、おれや耕太、おまえまでバックれたことになっちまう。あー、朝比奈《あさひな》、いまごろ怒ってんだろーなー……ふふ、そーか、怒ってるか、怒ってくれてるのか。おれのために怒ってくれてるのか。ふふ、ふふふ」 「じゃ、じゃあ、マズイじゃないですか!」 「だいじょうぶだってば、耕太くん……」  耕太にすがりつきながら、ちずるがいった。 「あのね……真夜中にひとりでホテルから姿を消すのと、朝、明るいうちに友だち数人でバスからエスケープするのと、どっちが深刻そうに見えない? どう考えたってバスでしょ? とくに、友だち数人ってのがミソよね。望だけじゃなく、耕太くんとわたしもいっしょだもん、みんなきっとこう思うよ。ああ、耕太とちずるのやつ、またふたりっきりになりたくて、消えやがったな……望はついていったな、たゆらは邪魔しにいったな……って。本当、よかったよね、耕太くん。いままで、地道にいちゃついてきてさ……」 「え、えーと」  納得できるような、できないような? とりあえず耕太は、相づちを打った。 「さて、と……このあたりでいいか?」  たゆらが立ち止まり、振り返っていう。  耕太たちは、両|脇《わき》をビルの壁に挟まれた、入り組んだ狭い路地のなかにいた。おそらくは掃除するもののない路地裏は、それなりに汚れていた。  耕太も、ちずるも、うなずく。  ここなら人目につかないだろう。学校の〈葛《くず》の葉《は》〉の監視員たちが捜しにきても、そうそう見つかることはないはずだ。 「よし、じゃあ……とりあえず、これから、どーするよ」 「も、もちろん、望《のぞむ》さんを捜します!」  耕太は、ちずるに肩を貸したまま、ずずずい、とたゆらに迫った。  昨日、望が『ばいばい』を告げたことで空き、姿を消したことで大きくなった胸の穴は、ちっともふさがってはいなかった。いや、かえって大きくなっている。  この穴は、きっとふさがらない。  望とまた出会うまでは……あのとぼけた、ぬぼーっとした顔つきを見るまでは……。  だから——。 「望さんを、ぜったいに捜しださなきゃ!」 「わ、わーかってんよ、そんなことは! ええい、顔を近づけるな! あーのーなー、問題はどうやって望を捜しだすかだろ? 昨日の夜だって、おれたち、札幌の街を駆けずりまわって捜しまくったんだぜ? 耕太、おまえはちずると憑依《ひょうい》合体して、妖狐《ようこ》の姿になって、しっぽ七本のバケモノ状態になってまで、望の妖気《ようき》を探りもした。それでも見つからなかったんだ……となれば、普通に捜してたんじゃ、いつまで経《た》っても見つけだせねーだろーが! 違うか! だから捜しかたを考えようっていってんだよー」 「そ……そのとおり、です……」  耕太はうなだれる。 「もしかしたら、結界のなかに隠れているのかも」  ぽつりと、耕太にもたれていたちずるが、いった。 「結界……ですか?」 「そう。昨日、望が耕太くんをホテルの大浴場に連れこんだとき……結界が張ってあったでしょ? あれ、すっごく強力なやつだったのよ。わたしも気づくのに時間がかかったし、最初、望のしわざと思わなくて、てっきり……」  なぜか、口ごもる。 「てっきり?」 「いや? なんでもなーい」  あははは、とちずるは笑った。 「あ、それにね、あの大浴場の結界、わたしだけじゃなくて、砂原《さはら》や八束《やつか》、雪花《ゆきはな》たちも気づくのにけっこう時間がかかったのよ。あいつらって、かなりの腕前なのね? 砂原たちは退魔の術者として、雪花は妖《あやかし》として、一流なのよ。なのに、意識にすらのぼらせなかったなんて……結界の能力だけとったら、超一流っていってもいいぐらいよね」 「その結界って、もしかして……望さんが?」 「まさか。あのバカオオカミはそもそも、術、使えないはずだし。あのね、昨日、わたしは実際に見てはいないんだけど……屋上に、人狼《じんろう》がふたり、いたんでしょ? 望といっしょに消えたってやつら。そのひとり、耕太くんになにやら眠くなる黒いもやの術を使ったっていう女の人狼が怪しいかなー。だって、『巫女《みこ》』とかいってたらしいし」 「あ……そ、そうです! 『わたしにも巫女の誇りが』って、たしかにいってました!」 「やっぱ、そこだよな……」  たゆらが、あご先に手を当てた、なにやら考えこむ姿勢で、いった。  ちずるが、じと、と細めた眼《め》で、たゆらを見つめる。 「なにがそこ? おまえ……巫女《みこ》好きだっけ?」 「だれが姉三六角巫女みこナースか! そうじゃなくって、望《のぞむ》といっしょに消えた人狼《じんろう》ふたりのことだよ! おそらく望は、あいつらといっしょにいる……なあ耕太、そいつらと顔をあわせたのは、おまえだけなんだ。なにかないのか? あいつらを捜す手がかりとなるような、なにか……会話でも、しぐさでも、やつらの年格好でも、なんでもいい。昨日もいちおうは訊《き》いたけどよ、もういちど、しっかりと思いだせ」 「う、うん! えーと……」  耕太は眼をつぶり、頭のなかを掘りおこしてゆく。  昨日の、夜……。  男と女だった。どちらも、耕太より年上の、大人だった。  目鼻立ちはしっかりとしていて、いわゆる、美男、美女だった。あのときは男の鋭く無機質な、ガラス玉のような眼ばかりが印象に残って、顔だちまでは気にしてはいられなかったけれども。  名前は、男はマキリ、女はレラ。  姿は、めずらしい、見たこともない柄の着物だった。  頭からは、望とおなじ、狼《おおかみ》の耳。腰からはしっぽ。髪は銀髪で、肌は白い。その狼の姿と、望を『姫さま』と呼んでいたことからも、ふたりはまちがいなく、望とおなじ人狼なはず……。 「つまり、望はどこかの王さまの娘ってことよね」  ちずるがいった。  その言葉に、たゆらは眉《まゆ》と眉のあいだに皺《しわ》を刻みこむ。 「いや、だってよ、ちずる……王さまったって、人狼の国なんて……」 「そのとおり。人狼の国なんて、ない。というか、人狼ってそもそも数がすくないのよね。あいつら、プライド高いもんだから、よくニンゲンたちやほかの妖《あやかし》たちと揉《も》めて……いくら強くたって、多勢に無勢、おまけに策を練るのも嫌、退くのも嫌となれば、お望みどうりの玉砕よね。生き残ったのは朔《さく》みたいな、生きるのにどん欲なやつだけ……」  耕太は、下を向く。  歴史の闇《やみ》というものを、知ったような気がしたからだ。いつもはとぼけ顔の望や、あの強い朔が、どんな境遇を生きぬいてきたのか……人間として、のうのうと平和に暮らしている自分が、なんだかすごく申し訳ない気持ちになってくる。  と、肩を貸していたちずるが、耕太を抱きしめてきた。 「ごめんね、耕太くん……いまのは耕太くんが知らなくても、いいことだったね」  ちずるは、頬《ほお》を耕太の頭にこすりつけてくる。すりすり、すりすり。 「そ、そんなこと、ないです。ぼく、もっと、そういうこと、知りたい……」 「やめとけ、やめとけ」  たゆらがひらひらと手を振った。 「妖《あやかし》どもの不幸話なんか、知らないんだったら知らないままのほうがいいんだよ。それにな、ニンゲンに狩られる妖にも、たいがい、狩られるだけの理由ってもんがあるんだ。さっきの人狼《じんろう》の場合は違うだろーけどよ、世のなかには、ニンゲンを楽しみだけのためにぶっ殺したり、食ったりする妖もいてな……まあ、〈葛《くず》の葉《は》〉なんつーもんがあるのは、伊達《だて》じゃねーってこった。妖はおれたちみてーなのばっかじゃねーんだよ」 「たゆらくん……」 「あのね、耕太くん」  頬《ほお》をこすりつけながら、ちずるがいう。 「たしかに世のなかって、きれいごとばかりじゃないけど、かといって汚いことばかりでもないの。もしかしたら耕太くんは、いま、ものすごく世のなかが汚く感じられちゃってるのかもしれない。けど、忘れないで。それだけじゃないってことを……ね?」  耕太は、自分を抱くちずるの胸に、頬を預けた。  ふにん、むにん。  愛は……ここにある……のかな? 「ま、余談はともかくと、して」  ちずるが、耕太を抱きつつ、いった。 「人狼の国は、いま、ない。だけどもしかしたら、もっと小さな規模のものなら、あるかもしれない。たとえば里とか、村とか」  ふむ、とたゆらが考えこむ。 「つまり、こういうことか。望《のぞむ》は、人狼の一族の、里だか村だか、そこの長《おさ》の、娘……」 「たぶんね。それに、格好もヒントになる。普通の洋服姿じゃなくって、めずらしい着物姿だったって、ちょっとおかしくない? だってあのホテルに〈葛の葉〉がいるって、あいつらわかってたんでしょ? なのに、どうしてそんな目立つ格好をしてたわけ?」 「そーだよな。普通の、それこそシャツにジーパンなんて洋服でも着てたほうが、正体バレなくてすむわけだし。ニンゲンの姿じゃなく、人狼の姿バリバリだったのもそうだけど……もしかしてあいつら、ニンゲン社会のことをあんまり知らねーんじゃねーか? 知らねーから、ニンゲンに化けることもできない。どうだ?」 「うんうん、たしかに。ずっと山奥にこもっていた妖とか、すっごくズレてるものね」  耕太は、雪花《ゆきはな》が修学旅行先だというのに、白衣を着たままだったことを思いだした。そーか、あれはやっぱりズレてたのか……。 「と、なれば……」  ちずるの口元に、自信に満ちた笑みが浮かぶ。 「うん、そうだ。やつら、人里離れた地に潜んでいる可能性が、高い」 「だな」  ちずるとたゆらが、微笑《ほほえ》みあった。  互いの拳《こぶし》を伸ばし、こつん、と当てる。 「……す、すごい。すごいですよ、ふたりとも!」  ただ黙ってふたりの推理を聞いていた耕太は、ひたすら感心するばかりだ。ちずるに抱かれながら、どうにか手を動かして、拍手した。ぺちぺちぺち……手を打ち鳴らす音が、狭い路地裏に響く。ちずるはえへへー、と微笑み、たゆらは、けっ、と吐きすてた。 「——で、具体的には、どこにいるんですか?」  ん? と、照れていたふたりが、固まる。  どうじに、首を傾《かし》げた。 「どこ……かしら。なにもない、襟裳岬《えりもみさき》?」 「いや、富良野のラベンダー畑も捨てがたいぜ」 「……え?」  耕太は、ふたりがなにをいってるのか、ちっともわからなかった。 「いや、だからね、耕太くん……。北海道って、すっごく広いのよ。人里離れた地なんて、たっくさんあるの。だから」 「どこにいるかなんて、現時点じゃちっともわっかんねーってことだ」 「えー……」  喜びが大きかったせいか、落胆の度あいもまた、大きかった。  問題だったのは、ついつい、その失望ぶりをありのまま声と顔とにだしてしまったことだろう。 「て、てめえ、耕太!」  当然のことではあったが、たゆらは怒った。 「自分ではなにもしねえくせに、くそ、文句ばかりいいやがって! あのな、とにかく情報が足りなすぎるんだっつーの! 暗い暗いと文句をいう前に、進んで明かりをつけましょう! 文句をいう前に、なにかもっと思いだしましょう!」  首元をつかまれ、耕太はがくがくと揺すりあげられてしまった。 「ご、ごめん! まったくもってそのとおりでした!」  揺すられながら、耕太は記憶のページをめくる。  しかし揺すられているせいか、脳内のページも、ばさばさ、ばさと、あらぬところを開くばかり。昨日の、まさに一週間ぶりなちずるのあられもない姿が……耕太によって汚され、それでもなお、聖女のごとき輝きを放つ彼女の肢体が……ぬめぬめぷーが……。 「耕太くんに、なにをするのよ!」  ぬめぬめぷーな聖女が、たゆらのあご先にパンチをくれた。  その拳は、さきほどたゆらと重ねあわせた拳だった。ぱすっ、と乾いた音があがり、たゆらは的確にあご先を打ちぬかれ、その場に膝《ひざ》から崩れ落ちた。 「た、たゆらくん!?」 「お……おれが悪いのか……なあ、耕太……いまのはおれが……」  包帯を巻いていた頭を地面に落とし、完全にうずくまる。尻《しり》だけをぴこん、とあげた状態となった。 「ご……ごめんよう、ごめんよう、たゆらくん、ぼくのせいで……」  せめてものつぐない、耕太はなにか思いだそうと、両のこめかみに立てた人さし指をぐりぐりと当て、頭をひねくりまわした。うーん、うーん、うーん。  そうだ、男の姿だ!  マキリと名乗る男の姿を、耕太ははっきりと思いだす。  髪は無造作に伸ばした感じの、長い銀髪。ハチマキのようにして頭に巻いた黒い布で、押さえていた。背は高い。たゆらとおなじくらい……となると、一八〇センチ弱だろうか。目つきは鋭く、切れあがり、鼻は高く、唇は薄く、しかしガラス玉のような感情のない瞳《ひとみ》のせいか、どこかのっぺりとした印象の顔つきで……。 「あ、あのひと、すごくそっくり!」  うまいぐあいに、路地の奥に似た姿格好の男がいた。  耕太たちとはけっこう離れた、ちょうど路地の角に曲がる位置だ。そこから、まったくおなじ顔つきの男が、こちらを見つめている。あの無機質な眼《め》や、なんとまあ、着ている服すらもおなじで……白い着物、ズボン状の袴《はかま》……黒いブーツ……え? 「ち、ちずるさん、たゆらくん……あれ」  耕太は、男を指さす。  指さして、思う。ちょっと、似すぎてない?  だってほら、頭頂部からは狼《おおかみ》の耳まで生えていて、腰から下には狼のしっぽまで伸びて、あ、いま、しっぽが、ふぁさふぁさと動いた……本物? 「ま、まさか、本物の……」 「——耕太くん、後ろ!」  ちずるの叫びに、耕太は振りむく。  路地の奥、やはり離れた位置に、男とおなじように、人狼《じんろう》の女が立っていた。  名はたしかレラだ。銀髪を二本の細い三つ編みにまとめた髪型、狼の耳にはめたリング、首には青い玉の首飾り、腰には小刀……まちがいない。 「うりゃっ!」  かけ声|一閃《いっせん》、ちずるが妖狐《ようこ》の姿へと転じる。 「とおっ! フォックス・チェーンジ!」  うずくまっていたたゆらも、跳ねるようにして起きあがり、妖狐へと変化《へんげ》した。  黒かったちずるの髪が、金髪に。  たゆらの髪は銀髪に変わり、ふたりの頭頂部からはそれぞれ髪とおなじ毛なみをした狐《きつね》の耳が、腰からはしっぽが生えてゆく。狐の耳に、たゆらの包帯は、弾《はじ》けてほどけた。  完全に金狐《きんぎつね》の姿となったちずるが、耕太をかばうように、前へとでた。  人狼《じんろう》の男、マキリと向かいあう。 「こいつらなの、耕太くん! 望《のぞむ》といっしょに消えたとかいう、人狼! あのバカオオカミを姫さまなんて呼ぶ、頭のおめでたいやつら……はっ! 望が姫? どこの国の姫? 食いしん坊バンザイ王国の姫? だったらわたしは、永遠美少女王国の大女王さまだ! おーほほほ、女王さまとお呼び!」 「ちずるさん……さっき自分で、望さんは人狼の一族の、里か村の長《おさ》の娘だって」 「おい、ちずる! こいつら、なにを考えて目の前にあらわれたかは知らねーが、のこのこ姿を見せたのが運の尽きだ! とっつかまえて、望の居場所、吐かせてやろーぜ!」  銀狐の姿となったたゆらは、人狼の女、レラと向かいあっていた。 「うーし……」  ちずるが、ぱきぱきと指の骨を鳴らす。  鳴らしながら一歩、二歩と足を進めると、そのしぐさに気圧《けお》されたのか、マキリはさがった。あの、まばたきのない眼《め》でこちらを見すえたまま、じりじりと退き……。  身を返し、路地の角へと消えた。 「待て!」 「こ、こら、そこの姉ちゃん、逃げてんじゃねーよ!」  と、レラのほうも姿を消したらしい。  ちずるもたゆらも、逃げた人狼を追おうと、駆けだしかけた。 「ま、待ってください、おふたりとも!」  あいだに入っていた耕太は、ふたりを止める。  腕を伸ばし、しっぽのつけ根をつかんで。 「あやややややや」 「おほほほほほほ」  ちずるとたゆらは、ぴーんと立ち、ぶるるるるー、と震えた。 「こ、耕太くん、そこはダメだったら! えっち!」 「な、なにすんだバカヤロウ! 敏感なところを……せ、せめてやさしくしろ!」 「ご、ごめんなさい!」  両側からステレオで怒られ、耕太は身をすくめた。 「で、でも……その姿のままで街のなかへ飛びだしちゃったら、ちずるさんやたゆらくんが化け狐だって、みんなにひと目でバレてしまいますよ。〈葛《くず》の葉《は》〉のひとたちが、もうぼくたちのことを捜しまわっているのかもしれないのに」 「う……」  ふたりは黙りこむ。 「たしかにぼく、望さんのこと、心配です。望さんが刑務所送りなんてこと、なってほしくないし、望さんに、また、会いたい……。だけど、それでちずるさんたちが処罰されるなんてことも、ぜったいに嫌です。だから……」 「ダメだよ、耕太くん」 「え?」  鼻先に、びし、とちずるの人さし指が突きつけられた。 「『だから』のつぎは、『ぼくと合体してください』でしょ? たしかに、耕太くんとわたしが合体して七本しっぽの状態になれば、ニンゲンの眼《め》には止まらないくらいのスピードで動くことができる。人狼《じんろう》の動きは、わたしたち妖狐《ようこ》よりもかなりすぐれているだろうけど、それもたやすく捕まえることができるでしょうね」 「だ、だったら」 「ダメったら、ダーメ!」  ちずるは、×のかたちに重ねあわせた両の人さし指を、耕太の唇に当ててきた。んちゅっちゅ。押しつけられる。ふにゅにゅ? 「耕太くんはここで待ってて。あいつら、かならずわたしがとっつかまえてくるから」 「で、でふけど」 「あー、そーだなー」  たゆらが、その銀色の髪をかきながら、いった。 「冷静になって考えてみると、すっげえ罠《わな》くせえし。だってよ、わざわざ姿を見せる理由がねーじゃん? あのふたりの目的が望《のぞむ》だとしたら、黙ってこのまま引っこんでいればいいわけだし……それに、ほれ、見ろよ、アレ」  と、路地の向こうを指さす。  なんと、マキリが、いた。  ビルの壁である路地の角から、身体半分だけだして、あのロボットじみた無機質な顔で、耕太たちをじーっと見つめていた。 「も、もしかして……」  振りむけば、レラも同様にしていた。  角から、身体半分だけだし、じーっと見つめてくる。頭隠して尻《しり》隠さずというか、身体半分隠して半分隠さずというか。そもそも、隠す気がないらしい。 「わ、罠でしか、ないね……」  なんかもう、耕太は笑うしかなかった。 「だろ? だから耕太、とりあえずおまえは、ここでおれといっしょに待機しとけ」 「え? た、たゆらくんと? じゃあたゆらくんは、追いかけないの?」 「いま罠だっていったろ。どうしてあのふたりがここに姿を見せたか……望を連れ去ったときの唯一の目撃者、おまえを抹殺するためかもしれねえぞ。おれとちずるでふたりを追ったあとで、残ったおまえを、隠れていた仲間がぐさりと……証拠隠滅ってやつ?」  たゆらが、ナイフを持つかのように指先を曲げた手を、どす、と耕太の腹に当てた。 「ぐ、ぐさり?」 「あー、人狼《じんろう》だから、がぶり、かな? どっちにしろ、ひとりはマズイだろ」  耕太は、ぶるりと震えた。  昨日の、あのマキリの物を見るかのような瞳《ひとみ》を思いだしかけ……しかし、振り払う。 「だったら、ちずるさんひとりで追うのも、危険だよ! だって、人狼って、ちずるさんたち妖狐《ようこ》より、肉体的な能力は上なんでしょ? それがふたりもいて……あと、ひとりは巫女《みこ》さんで、妖術《ようじゅつ》だって使うし! やっぱりちずるさん、ぼくと合体して」 「わたしひとりじゃ、なんだって? 耕太くん」  ちずるの声とともに、なにかくぐもった音があがった。  ぼぼぼぼと、空気を弾《はじ》く音……なんだろ? 「ちずるさ——うえ!?」  振りむくと、そこにはしっぽがあった。  燃えさかるしっぽが、振られ、空気を燃やしながら弧を描いていた。それも、数本も。  ちずるは、炎のしっぽを六本も生やしていた。  それに元の自分の金毛のままのしっぽをくわえ、計、七本。両側にビルの外壁がそびえ立つ狭い路地で、七本のしっぽはうじゃうじゃとちずるのまわりをうごめいていた。六本もの炎のしっぽに照らされ、ちずるの金髪はやたらときらめく。 「ち、ちずるさん……それ……」 「もちろん〈龍《りゅう》〉だよ? ふふ、六匹もの〈龍〉を従えたいまのわたしに、人狼の一匹や二匹集まったところで、負けるはずが——ぬわいっ! 某物置よろしく、百人かかってきたってだいじょうぶってもんよ。いまのわたしに勝てるったら……母さんぐらいかな? だから安心して、耕太くん。ぱぱーっといって、ぱぱーっと帰ってくるから」  炎に包まれ、まばゆいなか、ちずるが微笑《ほほえ》む。  すぐそばに炎のしっぽがあるのに、不思議と耕太は熱くなかった。手を伸ばし、触れてみても、ただちりちりとする感触があるばかり。なぜかたゆらは、熱そうに顔をゆがめ、ちずるからもだいぶ離れていたが。 「よーし……じゃあ、まずは……」  ちずるがぐるりと視線をまわすと、すでにマキリの姿も、レラの姿もなかった。さすがにいまのちずるがヤバイとわかったようだ。 「ふんだ、逃がすもんか! じゃ、いってくるね、耕太くんっ!」  耕太の返事を待たず、ちずるは飛んだ。  「でぃやっ!」と、まるで某三分間でカラータイマーが鳴っちゃう時間限定宇宙人のように、腕をまっすぐに伸ばし、真上へ、ぴゅーんと。  しっぽが七本もあると、空も飛べるらしい。  ちずるはビルとビルのすきまをぬけ、真上に広がる青空へと飛びあがった。きょろきょろと下を見おろして、すぐに横へと動く。耕太たちからは見えなくなってしまった。 「……〈龍〉が六匹って、おい、耕太」  たゆらの声に、耕太は空と雲しかない景色から視線を戻し、そのままうなだれる。 「うん。ぼくがちずるさんにとり憑《つ》かれたとき、だせる〈龍《りゅう》〉とおなじ数だよ……」 「いつのまにちずるはあんな使いこなせるようになったんだよ? だっておまえ、つい三ヶ月ぐらい前の夏、海で大海神《おおわだつみ》やら玉藻《たまも》さんやら〈御方《おかた》さま〉やらが怪獣大決戦をやらかしたときには、ちずるはまだ、〈龍〉は三本までしか使えなくて……」  耕太は、うなだれたまま首を横に振る。  本当にわからなかったのだ。いつのまに……どうして……。 「やべえなあ。こいつはマジで、あの美乃里《みのり》のいうとおり、神さまなんてことも……」 「え? いま、たゆらくん、なんて? 美乃里? 美乃里がなに?」 「な、なんでもねーよ!」  そう答えたたゆらの顔ときたら、汗でだらだらだった。  よほど都合が悪いことだったのか……にしても、ちょっと、汗、かきすぎ? 「たゆらくん、どうしたの、その汗」 「ああ? おまえこそ、さっき熱くなかったのかよ。炎のしっぽが、この狭いところにあれだけひしめいてたっつーのに……おれは焼け死ぬかと思ったぞ」 「ぜんぜん……熱くなかった……」  耕太は、さきほど〈龍〉に触れた手を、見る。  手のひらを広げてしげしげと眺めてみても、まったく、やけどひとつない。うっすらと汗はかいていた。六体の〈龍〉を従えたちずるを見たときにかいた、冷や汗だ。  ちずるさんは……そして、ぼくは……? 〈龍〉には、ちずるがいったように、たしかにとてつもない力があった。  かつて耕太たちは、人ひとりが乗れるほど巨大な昆虫に、何百匹と襲われたことがある。そのとき、耕太とちずるが合体してだした六体の〈龍〉は、またたくまに蟲《むし》たちを灰と化した。そう、あのときも六本のしっぽが、六体の炎の〈龍〉と変わって……六体? 「あれ……?」  あのとき、耕太とちずるが合体したとき、たしかにしっぽは六本だった。  そして、炎と化した〈龍〉も六体だった。  じゃあ、ちずるのしっぽはどこにいったんだ? さっき、ちずるはちゃんと自分のしっぽを生やし、そのほかに六体の〈龍〉を従えていた。耕太とちずるが合体して、〈龍〉を使うときも、ちずるのしっぽはきちんと残っていた。  なのに、あのとき、ちずるのしっぽはなかった。すべて、〈龍〉だった。  もしかして?  もしかして、ちずるさんも……〈龍〉……。 「た、たゆらくん、あのさ……うええええ!?」  たゆらの姿が、なかった。  代わりに、さっきまでたゆらのいた位置には、紫色のもやがあった。  人ひとりをすっぽりと包みこむそのもやは、たしか、昨夜、耕太のやられた——と、もやのなかから、なにかが倒れる音が届く。  どうじに、耕太の視界が、暗紫色に染まった。 「わー!?」      ★  ちずるは、上空から人狼《じんろう》たちを追っていた。  マキリとレラ、男女ふたりの人狼は、狼《おおかみ》の耳にしっぽを生やし、白い着物に白い袴《はかま》なんて非常に目につく格好のまま、銀髪をなびかせ、堂々と街中を逃れている。  ただの街中ではない。  札幌の街中をだ。あたりにはビルや店が建ちならび、いくつもの車線がある道路には車がひしめき、どこも人でびっしりの、正真正銘大都市な札幌の市内を、マキリとレラは隠れることなく、交差しながら駆けぬけていた。  動く車のあいだをぬって道路を走り、街路樹やビルの壁を蹴って跳ぶ、ふたり。  しかし、人々が騒ぎだすことはなかった。  あまりに速すぎるのだ。  元々、人狼は妖怪《ようかい》のなかでも、かなりの身体能力を誇っている。ふたりはそれにふさわしい動きを見せていたために、一般人の眼には、ほとんど映らなかった。たとえ映っても、一瞬の白い影としか——。  上空を飛ぶちずるも、似たようなものだった。  かなりの速度で飛行していたし、さらにちずるは激しく燃えさかっていた炎のしっぽを消し、ただの金毛しっぽの状態へと戻していた。案外、都会の人は空を見あげないこともあって、両腕を前に伸ばしたまっすぐな姿勢で、金髪と七本の黄金しっぽを風圧になびかせ飛ぶちずるを、目撃するものはいなかった。 「あいつら、いったいどこへ逃げ……うっぷ」  ちずるが、口元を押さえる。  とたんにがくがくと飛行速度が落ちた。 「うう……恨むべきはカニ・サンドか……これさえなければ、もっとあっさり捕まえているのに……全速で飛ぶと、美少女にあるまじきことに、も、戻しそう……」  ふらつきつつ、ちずるは青空のなかを飛ぶ。  目にも止まらぬ人狼の逃避行と、たまにがくん、と速度を落としながらのちずるの追いかけっこは、続いた。  やがて、市のど真ん中にある、札幌市時計台へと、至った。 「……は?」  マキリとレラが、時計台の屋根の上へとあがり、ちずるを見あげてくる。  クラシックな装いの札幌市時計台は、市の真ん中も真ん中、まわりにビルがならび、すぐそばに十九階建ての札幌市役所なんてある、まさに街中にあった。 『——なにを考えてるのよ、おまえたちは!』  ちずるははるか上空から、ごま粒のような人狼《じんろう》ふたりに向かって、呼びかけた。  その声なき声は、マキリとレラにしか届かない。  七本しっぽだと、そんな芸当すらできるらしい——しかし、人狼ふたりは答えなかった。時計台のいちばん高い場所、大時計の盤面がある傘状の屋根の上に乗ったまま、微動だにしない。 『あのね、逃げるにしろ、闘うにしろ、わたしを罠《わな》にかけるにしろ、もうちょっと場所ってもんがあるでしょーが! なんだってそんな街中の観光スポットなのよ!』 「——街中ならば、その力、存分には振るえぬだろう。〈龍《りゅう》〉よ」  マキリが答えた。  はるか真上にいるちずるには、口が動いただけとしか感じられないはず——が、ちずるはぴく、と片|眉《まゆ》を動かす。ちゃんと聞こえていたようだ。 『ずいぶんと、わたしについてくわしいみたいね? なに? やっぱり〈葛《くず》の葉《は》〉?』 「違う。あのような輩《やから》といっしょにするな」 『だったらどうして、わたしを〈龍〉と呼ぶのよ!』 「答える必要があるのか」  マキリはハチマキの下、あのガラスのような眼《め》で、ちずるを見つめあげる。〈龍〉状態のちずるを前に、なんらおびえた様子はなかった。 『なるほどね……上等ぉ』  ちずるはぴくぴくと、引きつった笑みを浮かべた。 『だったら望《のぞむ》の居場所を聞きだすついでに、そっちの件もじっくりたっぷり教えてもらおーじゃない! わたしは——耕太くん以外には、けっこー残酷よ!』  札幌市上空から、ちずるの姿はかき消えた。  落下していた。  超高速で、時計台へと落ちていた。屋根の上に立つマキリとレラに向かって、まっさかさまの姿勢で瞬時に迫り、腕を振りかぶって——。 「しゃーっ!」  爪を立てた手を、振りおろす。  時計台の屋根が、消失した。  それはわずか屋根一枚のことではあったが……完全に消え去り、丸い爪痕を残した。 〈龍〉の爪の力だった。  ちずるの腰から生えた、七本のしっぽ——元々の一本をのぞく六本の〈龍〉のしっぽから、黒い気が広がり、ちずるのいま振りおろした右腕にまとわりついていた。右手をとりまく〈龍〉の黒い気は、大きな爪のかたちとなって、さきほどマキリとレラがいた場所を、無惨にもかけらすら残さず削りとったのだった。 「……我らを殺《あや》めてどうするつもりだ、〈龍《りゅう》〉よ」  しかしマキリとレラは、すばやく逃れていた。  時計台の屋根の上、ちずるからは離れた場所に、ふたりならんで立つ。 「口を割らせるつもりではなかったのか?」 「う、うるさい! ちゃんと避けるって、わかってたもん!」 「……ほう」  マキリとレラは、身をひるがえし、逃げた。  ちずるは追う。  ビルの上を跳びまわり、そのまま大通公園へと逃れるマキリとレラ。両|脇《わき》を大きな道路に挟まれた緑多い公園のなかを、ふたりは駆けまくり、ちずるは追いまくり。〈龍〉の気の爪で樹木をえぐったり、芝をえぐったり、いきおいあまってそばにあるテレビ塔をちょっぴり削ったり。  さんざん追いかけっこをしたあげく——三人はまた、時計台へと戻った。 「な……なにが……うっぷ、したいのよ、おまえらは!」  ちずるはまた、カニ・サンドをリバースしそうになったらしい。口元を押さえながら、最初にえぐってしまった時計台のいちばん高い屋根の上に、立った。  いくらちずるに睨《にら》まれても、マキリとレラは、離れた場所の屋根のへりに立ったまま、涼しい顔だ。顔色ひとつ変えず、例の能面じみた顔で、ちずるを見つめ返している。 「問いたいのはこちらだ、〈龍〉よ」 「それ! その〈龍〉! さっきからわたしのこと、ずっと〈龍〉って呼んでるけど……やめろ! わたしには、源《みなもと》ちずるって名前がちゃんとあるんだから!」  きしゃー、とちずるは吠《ほ》えた。 「では、源ちずると呼ぼう。源ちずる、おまえはわたしたちをわざと逃がすつもりだな。そうして、行き先を確かめるつもりだろう?」 「……さあ、なんのことやら?」  ぷい、とちずるは横を向く。ちゃんと横目で見て、ふたりから視線は外さなかった。 「なるほど、たしかにわたしたちはおまえには勝てない。攻撃を一撃でも喰《く》らえばたやすく死ぬし、逆にこちらが攻撃しようとも、傷ひとつつけることはかなわない。逃げるよりほかに、手だてはなにもないだろう」 「よくわかってるんじゃない。だから、なにがしたいのよ、おまえたちは……」  ん? と、ちずるの眼《め》が細く、鋭くなった。  視線を、マキリではなく、その横のレラへと注ぐ。 「まさか……?」  ぎり、とちずるは歯を噛《か》みしめた。  うりゃ、と腰をひねる。  暗黒|妖気《ようき》をまとった六本と普通の一本、すべてのしっぽが束となって、マキリとレラに襲いかかった。先が鋭く尖《とが》り、太い針と化したしっぽが、ぐいんと伸び、ふたりのいた場所に突き刺さる。また屋根を破壊した。 「こっちが本命!」  高々と跳んで攻撃をかわしたマキリとレラ目がけ、ちずるは続けて腕を振った。  サイドスローのかたちで横から振られた腕の先から投じられたものは、火球。人ひとりをたやすく呑《の》みこむほどの、特大|狐火《きつねび》だ。  狐火が、うなりをあげて空中のふたりへと向かう。  マキリ——をかすめ、背後のレラに当たった。 「やっぱり!」  本来、当たれば爆発するはずの狐火。  それが、そのままレラの背後へとぬけ、飛んでゆく。空の彼方《かなた》へと消え去った。  あとに、レラの姿はない。  あるのはただ、青空だけだった。 「だ……騙《だま》したな! 化《ば》け狐《ぎつね》を化かしたな! げ、幻影なんて……くーっ!」  ちずるはだんだんと屋根を踏み鳴らした。 「騙されるほうが悪いのではないか?」  ひとり、離れた位置の屋根に降りたったマキリが、首を傾《かし》げる。 「かーっ、ムカツク! 化け狐が化かしたあとにいいたいセリフナンバーワンを、逆にいわれた! プライドばっかり高くて、真っ向勝負オンリーなはずの人狼《じんろう》にいわれた!」  わなわなと、ちずるは指先を震わす。  七本のしっぽや、金髪も毛先を逆立て……と、はっ、と表情を変えた。 「待てよ? じゃあ、その女はどこにいったの? ま、まさか……耕太くん!?」  ちずるは振り返った。  その大きく見開いた眼《め》は、耕太とたゆらが潜んでいるはずの場所、ビルとビルのあいだの路地裏のある側へと向けられていた。  視線を戻す。  さきほどまでとは違う、凍りつくような殺気に満ちた眼つきに、ちずるはなっていた。 「……耕太くんに手をだしたというなら、もう容赦はしない」 「容赦しないとなれば、どうする? さきほどいったとおり、わたしはおまえに傷ひとつつけることはできない。が、源《みなもと》ちずる、おまえがわたしのことを、傷ひとつつけずに捕らえることも、またできないはずだ。強すぎるのだ——〈龍《りゅう》〉の力が。だから、わざと攻撃を外し、わたしが逃げだすのを待つことしかおまえにはできなかった。違うか」 「たしかにそのとおりよ。まだわたしは、〈龍〉の力を完全には手にしていない……だけど、それがどうしたの? いま、事情は変わった。腕の一本、足の一本ぐらい、べつにもいじゃってもかまわなくなった」 「それを許すか? おまえがだれかを傷つけるのを、あの小山田耕太が」 「調子にのるな!」  ちずるから、衝撃が飛んだ。  周囲の空気を震わし、マキリの顔を、一瞬、ゆがめさせるほどの衝撃——それはちずるの感情の爆発だった。ちずるの顔は怒りで白くなり、金髪はざわめき、しっぽは七本とも、激しい炎に包まれ、彼女の背後でうごめきだす。 「わたしが手かげんしてたのは、そう、耕太くんのため! わたしがひどいことしたと耕太くんが知って、悲しまないため……だけどいま、耕太くんはおまえたちの手にかかった! 耕太くんの悲しみより、その身の安全をとるのは当たり前でしょうが。わかるか! おまえたちは、自分の手で安全弁を失《な》くしたんだ! わたしの暴走のな!」  がー! とちずるは吠えた。 「まあ、すこし待て」  マキリは手のひらを伸ばす。  怒り狂いかけのちずるを前に、それでも彼は平然としていた。 「待てるか!」 「あと十秒だ」 「じゅ、十……?」  九、八、七と続き、やがて、三、二、一と。  ゼロを告げた瞬間、ちずるの身体を、下からなにかが激しく震わした。  それは足元からの、大音声——。  鐘、だった。  ちずるの下にある大時計の鐘が、時刻を告げる音だった。ちずるは一瞬、棒立ちとなって、足元の屋根を見つめる。  はっ、と顔をあげた。  すでにマキリの姿は、ない。  マキリが立っていた時計台の端にある屋根には、ただ屋根しかなかった。 「な……な……な……」  開いた口をふさげないちずるの足元から、ざわめきが届く。  派手に〈龍《りゅう》〉のしっぽを七本も燃やす、金髪で制服姿なちずるに気づいた、観光客やら地元民たちだった。ちずるを指さし、語りあい、携帯電話で写真を撮ったりしている。職員だろうか、『降りろー!』との叫びまで聞こえた。 「ぬ、ぬ、ぬ……ぬあああああああああー! いろんな意味で、やられたー!」  ちずるは吠《ほ》え、飛んだ。  炎のしっぽを、まるでロケット噴射のようにして噴きだしながら、上空へと飛びあがる。あっというまに星となった。  残されたギャラリーは、拍手喝采《はくしゅかっさい》をあげる。 『最近の特撮はすごいねー』とか、『カメラ、どこー』とか、『オー、ジャパニーズ、コスプレ!』とか騒ぐ観衆のなかで、数人、あわてた様子で電話するスーツ姿のものたちがいた。 「もしもし、八束《やつか》さまですか! た、たいへんです、源《みなもと》のやつめ——」      ★  耕太たちが潜んでいた、ビルとビルのすきま、細い路地裏には、ただひとり、たゆらだけが残されていた。  たゆらは地面にぶっ倒れていた。じつに幸せそうな顔で。 「だ……だめだよ朝比奈《あさひな》……そんな……やさしくされたら、おれ、泣いちまう……」  むにゃむにゃと、唇を動かすたゆら。  その上に、ちずるはいた。  七本しっぽの状態で、大の字になってよだれを垂らすたゆらの、ちょうどみぞおちの位置の上に浮き、ロボットのような感情のない顔で見おろしていた。 「泣きたいのは——こっちだあああああ!」  叫びとともに、どむ、と鈍い音があがる。ぎにゃー、と男の悲鳴が、とどろいた。      2 「あ〜〜〜〜〜〜! もう、あのひとたちときたらっ!」  バスのなかに、叫びが響く。  あかねだった。  ホテルを出発したバスのなか、耕太たちの席が空白なことに気づいたあかねが、走るバスのなか立ちあがり、怒りの叫びをあげていたのだった。 「小山田くんに望《のぞむ》、そして源《みなもと》たゆら! あいつらめ、またまたまたまた、ああもう数えきれないくらいほどの自分勝手な行動をっ! 修学旅行はただの遊びじゃないのよ、団体行動を学ぶ場でもあるのよ! だのになのに、あーっ! どーせどーせちずるさんだって、体調が悪いとかなんとかいって、ズル休みなんでしょう、そうなんでしょう!」  ぶんぶんぶん、と腕を振るあかね。  まわりの生徒たちは『また始まった』とばかりに、にこやかな顔をしていた。ユウキにいたってはビデオカメラで映しながらはしゃぐ始末だ。  ユウキのカメラの向きが、きー、と怒るあかねから、空白の座席へと移る。 「わー、さっすがちいちい、のんのん、たゆたゆ、そしてエロスカイザーだね! いつかはやると思ったけど、まさか二日目から無断行動とは!」  となりのキリコが、んー、と考えこむ。 「えーっと、ちいちいは地井武男じゃなくって、ちずるさんよね? のんのんは望さんだし、たゆたゆは源くんか。また、テキトーな愛称を……ところで、どうして小山田くんはエロスカイザーのままなの?」 「だって小山田くんは、エロスカイザーじゃん!」  きっぱりといいきったユウキに、一瞬、車内が空白となった。 「……うん、まあ、たしかにそれはそうだ」  キリコのみならず、車内の生徒、ほとんどが深くうなずく。  生徒たちの話題はそのまま、耕太の話となった。 「そういえば昨日、部屋にちずるセンパイが、小山田迎えにきたんだけどさ……もうすでにエロスカイザーは犹守《えぞもり》といっしょにでかけてて」 「わー、なにそれ、修羅場じゃない!」 「そうなんだよ……ちずるセンパイ、マジでキレてさあ……本物の殺気って、浴びると身動きできなくなるもんなんだなあ……で、気の毒なのは源で、家に帰ったら、姉さんに八つ当たりされるんだって鬱《うつ》になってて……あ、これはバラしちゃマズかったか?」 「でも、犹守さんは小山田くんの愛人でしょ? いつも、本妻のちずるさんには一歩ゆずっていて……まさか下克上? 本妻の座を巡って、骨肉の争い?」 「わー、略奪愛だ! ねえねえ、それからどうなったの?」 「どうなったって……今朝、ちずるセンパイは風邪引いたらしいし……犹守は無事だし」 「あ……な、なるほど」 「ああ、三人で、エロス帝国の領土を広げてたんじゃないか? いいよなあ、小山田……こんどはどこでプレイしたんだろ……風邪引いたってことは、外かな? 屋上?」 「シャーラーップ!」  あかねの声に、車内は静まりかえった。  もっとも、男も女も、頬《ほお》を染め、なにやらもじもじとしてはいたが……。 「うー、まったく、みんな影響されて……もう、男子! あなたたちが小山田くんたちの無断行動に協力して、いないのをごまかしたりなんかするから……共犯よ!」 「まあまあ、朝比奈《あさひな》さん。ほら!」  ごー、と口から炎をはきだしそうなあかねと、顔を引きつらせた男子たちのあいだに、袋が突きだされる。 「イライラしたときには、カルシウムだよ!」  ユウキが、片手でにぼしの入った袋を差しだし、満面の笑顔を見せていた。もう片手では、しっかりとビデオ撮影をしながら。 「……きーっ!」  あかねは袋ごと奪いとった。  むんずとにぼしをつかみとり、わしゃわしゃと口のなかに詰めこむ。椅子《いす》に座り、完璧《かんぺき》にやけ食いモードへと突入した。  と、耕太たちのエスケープで騒がしいバスの、その前方では——。 「源《みなもと》め……」  八束《やつか》が、渋い顔で舌打ちしていた。  教師たちは、みな、バス最前列の座席にならんで座っていた。うちひとり、バスの運転手の真後ろの席についていた八束は、いままで会話していた携帯電話の終話ボタンを押しながら、その画面を三白眼で睨《にら》み続けていた。 「どうしました?」  通路ごしの席に座っていた雪花《ゆきはな》が、尋ねる。彼女はまだ白衣姿のままだった。  八束はしばらく黙って携帯電話を睨んでいたが、やがて、身体を伸ばし、口元を手で隠しながら、雪花の耳元でささやきだした。  聞き終えるなり、ぷっ、と雪花はふきだす。 「笑いごとではありませんな、雪野《ゆきの》先生」 「こ、これは失礼……ですが、じつにあのかたらしい……」  目つきを鋭くさせた八束に、雪花は手を振るしぐさであやまる。しかし彼女の口元にはまだ、隠しきれない笑みが残っていた。  八束は長々と息をつく。自分の座席に戻り、深くもたれた。 「まったく、もみ消すのにどれほど苦労することやら……相手は今回の目撃者だけではない。本部での疑念も、もはやごまかしきれぬところまできているというのに」 「最初から、いかせなければよかったのではありませんか?」  そう尋ねた雪花を、八束は横目でじろ、と見やった。 「今朝の……源《みなもと》のアレですか?」 「というより……昨夜の犹守《えぞもり》さんのアレですね」  ふっ、と八束は鼻で笑う。 「まったくですな……」  八束は雪花に向けていた鋭い視線を、そのまま反対側へと向けた。  真横、窓際の席には、砂原《さはら》幾《いく》がいた。  太い三つ編みに丸眼鏡、赤いセーターに白いパンツルックなんて格好の砂原は、にこやか〜に八束を微笑《ほほえ》み返す。 「は〜い、八束先生〜、すごんぶ、食べます〜?」  小さな箱を差しだした。 (どうしてですか、砂原先生)  雪花は、砂原に尋ねた。  砂原[#「砂原」に傍点]、八束以外には聞こえない声で[#「八束以外には聞こえない声で」に傍点]。それは〈龍《りゅう》〉化したちずるが人狼《じんろう》相手に使った、意思をそのまま伝える妖術《ようじゅつ》とは違い、忍術に属する技術だった。声が届く範囲を、きわめて小さく限定する会話術……唇もほとんど動いていないため、まわりの生徒たちからは、ただ雪花が黙って砂原たちを見つめているようにしか感じられなかった。 (——犹守|望《のぞむ》の行動も、〈葛《くず》の葉《は》〉のしわざだと、そうお考えですか?) (あるいはそうかも、しれませんね〜)  砂原も、やはり雪花とおなじ術で答えた。 (なぜ止めなかったのですか? ホテルの屋上にも〈御方《おかた》さま〉の砂人形は潜んでいたはずですし、わたしの配下である雪女忍軍だって……その気になれば、人狼ともども捕らえることはできました) (我らはべつに、〈葛の葉〉と敵対したいわけではないからの)  砂原の口調が、がらりと変わった。  彼女の丸眼鏡の奥にある瞳《ひとみ》が、赤く輝きだす。 (これから先、結果として〈葛の葉〉とは争うことになるやもしれぬ。傷つけあうことになるやもしれぬ。だが、なるべくならば避けたい。なぜなら、我らは〈葛の葉〉が憎いわけではないのだからな……。ゆえに〈葛の葉〉がなにか企《たくら》み、仕掛けてきたとしても、逆らわぬ。下手に逆らえば怒りを買おう。怒りは争いを生もう。この場合、無抵抗であることがいちばんの抵抗なのじゃ。我らにいま必要なのは、時間なのじゃからな……) 〈御方さま〉の言葉を、雪花は黙って聞いていた。 (それに……〈葛の葉〉のしわざであるとばかりもいえんし) (え? それは……) 「——先生!」  突然の乱入者に、秘密の会話は中断する。  乱入したのは、あかねだった。 「問題児四人はどうなったんですか? 見つかったんですか? やっぱりちずるさん、ズル休みだったんですか? どうなんですか? 教えてください、先生!」  通路に立ち、八束《やつか》と雪花《ゆきはな》の座席のあいだに顔を突きだすあかねの手には、すっかり空となったにぼしの袋があった。 「大丈夫ですよ、朝比奈《あさひな》さん」  雪花が、やさしく答えた。 「四人のことが心配なのでしょうが……夏のような件には、なりませんから」 「なっ……雪花さ……じゃなくて、雪野《ゆきの》先生?」  微笑《ほほえ》みかけた雪花に、あかねは図星をつかれたのか、一瞬、びくつく。 「あ〜、なるほど〜」 「さっきからやたらやかましかったのは、親友の身を案じてのことだったと。ふん、なかなかいい話だな? 朝比奈」 「な……な……なな……」  砂原《さはら》と八束の言葉に、あかねの顔はみるみる赤く染まってゆく。  しまいには、バスの生徒たち全員が、拍手をしだした。ひとり真っ赤になって「そ、そんなんじゃ……違ーう!」と叫ぶあかねの姿を、ユウキはうんうんとうなずき、涙ぐみながらビデオに収めるのであった。      ★  北海道からは遠く離れた、薫風《くんぷう》高校、その三階、奥。  いつもは校内の妖怪《ようかい》たちが憩いの場として勝手に使用している元視聴覚室の教室で、蓮《れん》と藍《あい》は、パックのジュースをちゅーと飲んでいた。 「ママとパパ、北海道でなにをやってるのかなあ……」 「やっぱり朝から、〈あまえんぼさん〉かなあ……」  栗《くり》色の髪を、蓮は左、藍は右の片側だけのおさげにまとめた、ふたり。  その髪型以外に違いのない双子の少女は、耕太とちずるの自称娘であり、〈葛《くず》の葉《は》〉八家がひとつ七々尾《ななお》家の当主、七々尾|宗仁《そうじん》の実の娘でもあった。  薫風高校一年生の制服に身を包んだ彼女たちは、れっきとした人間だというのに、この妖怪たちの憩いの場にいる。乱雑に置かれた机のひとつにならんで腰かけ、足をぶらぶらさせながら、パックのジュースを飲んでいる。ちなみにジュースは、黒酢りんごジュースであった。 「おい、その〈あまえんぼさん〉……なんだ?」  尋ねたのは、教室のど真ん中に広げたシートの上にあぐらをかく、小柄な男だった。  あせた色の短髪をつんつんと尖《とが》らせた彼は、桐山《きりやま》臣《おみ》。  薫風《くんぷう》高校三年生の桐山は、背丈こそ蓮《れん》、藍《あい》よりすこし大きいぐらいでしかなかったが、その正体は風を操る妖怪《ようかい》、かまいたちだった。さらに校内の妖怪をまとめる『番長』でもあり、その触れれば切れそうな雰囲気といったら、まさにカミソリのごとくであった。  カミソリは目つきも鋭く双子を見すえ……頬《ほお》をもきゅもきゅと動かす。  桐山は、サンドイッチを食べていた。  目の前の弁当箱に入ったサンドイッチだ。  弁当箱はほかにもあり、そちらにはから揚げやら、たこさんウインナーやら、玉子焼きがある。作ってきたのは桐山とおなじく教室のど真ん中に広げたシートの上に座るおかっぱ頭の少女、|長ヶ部《おさかべ》澪《みお》だった。  手作りの料理を食べる桐山を、にこやかに見つめる、澪。  小学生にも見えないことはない彼女は、桐山といっしょで、薫風高校三年生、しかも妖怪である。人にかえるがとり憑《つ》いた半妖《はんよう》、かえるっ娘《こ》であった。  桐山たちと、蓮、藍がいつのまに知りあいになったのか……とにかく、どちらの側も、相手がここにいるのは当然のような顔をしていた。 「小山田とちずるの〈あまえんぼさん〉、なんだかおれ、よく聞く。なんだ? 小山田とちずるの、ヒッサツワザとかなんか、そういうのか?」  食べながら尋ねる桐山に、蓮と藍は互いの顔を見あった。 「……まあ、ある意味では」 「……必殺技と、いえるのかもしれない」  ふたりは見あったまま、うなずきあう。 「ふんふんふん? それ、強力なのか? すごいか?」  桐山はシートの上におろした腰をすべらせ、蓮と藍のほうを向く。 「強力といえば強力だし、すごいといえばすごい」 「たしかにママのアレは、うん、破壊力バツグンだしな……」  蓮と藍は、ぽっ、と頬を赤く染めた。  ん? と桐山は一瞬、首を傾《かし》げるも、すぐに戻す。 「それ……おれと澪でもできるか? 〈あまえんぼさん〉」  そう尋ねると、前に座っていた澪が、「えうう?」と眼《め》をぱちくりさせた。 「わ、わわ、わたしも?」 「そうだ、澪。おまえ、その〈あまえんぼさん〉身につけることできたら、強くなれるかもしれない。いや、おれ、澪のこと、ぜったい守るけど、でも、これから先、学校、なに起こるかわからない……いざというときは、〈あまえんぼさん〉で、自分、守れ!」  桐山は、蓮と藍に向かって身を乗りだす。 「さ、教えてくれ、小山田のムスメ、ふたり! 〈あまえんぼさん〉の、やりかた!」  蓮と藍は、鼻息も荒い桐山を見つめ、それから、横でおろおろしている澪を見つめ、さらに、その澪《みお》のまさに小学生ともいえる胸元のふくらみを見た。  ふたりどうじに、ため息をつく。  んしょっ、と机から飛びおり、桐山《きりやま》と澪の元へと向かった。  蓮《れん》は桐山、藍《あい》は澪の耳元に口を寄せ、こしょこしょと語りだす。  うんうんとうなずいていた桐山と澪の顔は、話が進むにつれ……桐山は白く、澪は赤くなった。澪はとうとう、両手で顔を覆う。  桐山はわなわなと震え、吠《ほ》えた。 「かーっ! あのバカップル、バカ! なに? おっぱい、顔、ぼいん? バカ! つける薬ないほど、バカ! それに〈あまえんぼさん〉名づける、死んで生まれ変わっても治らないほど、バカ! バカップル・チャンピオン!」  桐山の叫びは、続く。  そこに、がらがらと教室のドアを開け、大男が身を屈《かが》めながら入ってきた。 「おいおい、なにを騒いでおるのだ、番長どのよ」  大男は、どこもかしこもごつかった。  顔も、首も、肩も、腕も、胸板も、胴まわりも、尻《しり》も太ももも足も、なにもかもが岩のようにごつく、太く、たくましい。鍛えぬいた相撲とりという印象も受ける大男は、左眼《ひだりめ》の部分に十字の傷を刻んでいた。  彼は、熊田《くまだ》彗星《すいせい》。  その熊田の名が示すとおり、羆《ひぐま》の妖怪《ようかい》であった。  そして彼は、昨年、薫風《くんぷう》高校三年生として、番長の座についていた。そしてめでたく卒業し、薫風高校に通う妖怪たちの目的である『人間社会での生きかたを学ぶ』を、無事に達成していた。  にもかかわらず、なぜか熊田はまた入学してきた。  ごまかすつもりかなんなのか、名も熊田|流星《りゅうせい》から熊田彗星へと改め、新一年生として、薫風高校に通いだしたのである。熊田が新入生だと知ったとき、新番長の座をついだ桐山は、嬉《うれ》しいやら驚くやら、ショックのあまり気を失った——。  と、その桐山が、立ちあがり、熊田へと近づく。 「熊田さん、聞いてくれ! あいつら、バカ! 前からバカ、ずっと思ってたけど、予想をはるかに超える、バカだった! バカップル・キング!」 「なんだなんだ、なんなのだ? 廊下にいるときにもバカップルとかなんとか、ずっと怒鳴り声は聞こえておったが……番長どのがそう興奮しては、我ら下のものは、気が落ちつかぬではないか」 「う……そ、そうか! おれ、帝王学、忘れてた……」  すー、はー、と桐山は深呼吸しだす。 「で、そのバカップルとは、だれのことなのだ?」 「そのバカップルとは、こいつらの親! 小山田とちずる!」  桐山《きりやま》はまたも興奮して眼《め》を血走らせながら、蓮《れん》と藍《あい》を指さした。  蓮と藍が、熊田《くまだ》に向かってぺこりと頭をさげる。 「ははあ? なるほど……そういえば、いま小山田と源《みなもと》は、北海道か……ふふ、懐かしいな。かつて北海道が蝦夷《えぞ》などと呼ばれていた時代、わたしの知りあいの熊田|流星《りゅうせい》というものは、かの地で神とあがめられたこともあった……ふむ、よい地だぞ? なによりメシがうまい。川からとりたてのシャケもたまらんが、やっぱり北海道はカニかな……」  熊田は眼を細め、かすかにうるませた。  桐山は叫ぶ。 「そのよい地のホッカイドー、あのバカップル、汚す! おっぱい、顔、ぼいんで! 〈あまえんぼさん〉でー ホッカイドー、おっぱいドーになる!」  どうにも彼の興奮は収まらないようだ。おっぱいドー、おっぱいドーと手足をバタつかせる桐山を、蓮と藍はしばらく黙って見つめていたが……やがて動いた。  澪《みお》の両側に立ち、ステレオでなにごとかささやく。 「え……わ、わわ、わたしが? む、むむ、無理! だって、ぺ、ぺたんこだし!」 「お願いします、澪センパイ」 「バンチョーを救えるのは、もはや、澪センパイしかいません」  澪は真っ赤になって手と首を横に振っていたが、お願いします、澪センパイ、と双子にもういちど頭をさげられ、ついに——。 「き、きき……桐山、くん」 「おっぱいドー、でっかいドー! ……ん? なんだ、どうした、澪?」 「ひ、必殺……あ、ああ、あ、〈あまえんぼさん〉っ!」  漂は、真っ正面から桐山を抱きしめた。  その胸に。ぺたんこな胸に。  顔面から澪の胸に抱かれ、桐山は、その動きを完全に停止した。くたん、と腕が落ちる。 「ほう……たいしたものだな」 「わたしたちも、オドロキです」 「たとえママほどじゃなくても、これほどの威力があるとは……」  感心した様子の熊田に、蓮と藍は、自分のやはりぺたんこな胸を見おろし、制服のプレザーごしにわしづかんだ。「やはり愛か……」「うむ……」とうなずきあう。  熊田は、ふふ、と笑った。 「ときに蓮よ、藍よ、おまえたち、授業はどうしたのだ?」  午後の授業は、とっくに始まっていた。 「なんとなく」 「サボリです」  ふっふっふ……と熊田は肩を揺すり、低い声で笑う。 「パパとママがおらんでは、授業に張りがでんか? いかんなあ、そんなことでは……叱《しか》られるぞ、修学旅行から帰ってきたパパとママに」 「まあ、それも狙《ねら》いというか」 「ママに怒られてみたい年ごろというか」 「ふむ? パパには?」 「パパは怒りません」 「怒るママをなだめる役です」 「ふふ……怒ればいちばん怖いのだがな、パパが……」  熊田《くまだ》の呟《つぶや》きに、蓮《れん》と藍《あい》は彼を見あげ、んん? と首を傾《かし》げる。  がーっはっは、と熊田は大声で笑った。身体がぴりぴりとしびれ、窓ガラスが震えるほどの大音声に、蓮と藍はそろって耳をふさぐ。「そういえばパパは」「ママによくおしりペンペンしてたな」と互いに口パクしあった。  そして、熊田のあげる大音声のなか、桐山《きりやま》と澪《みお》は……。  いまだに〈あまえんぼさん〉をしていた。  微動だにしない。桐山は澪の埋《うず》まるほどもない胸に埋まったまま、澪は桐山を抱きしめたまま、どちらも眼《め》を閉じ、身動きひとつ、しなかった。 五、甦る人狼      1 「おつかれさまでした」  そんなレラの言葉とともに、ようやく耕太《こうた》は束縛から解放された。  両手両足ともに、ずっと縛りあげられていたのだ。さらに目元には目隠し、口元には猿ぐつわとして布を巻きつけられ、そのうえで袋にまで詰めこまれて、耕太はなにものかに担ぎあげられた。その状態で、いずことも知れぬ場所へ運ばれていたのだった。  ここは……どこだろ……?  耕太は、手首をさすりながら、あたりを見る。  薄暗い部屋だった。  どうやら、明かりといえるものは、蝋燭《ろうそく》だけらしい。  耕太の両側から、前方に向かってずらりとならぶ燭台《しょくだい》の列。その上で揺らぐ蝋燭の炎だけが、輝きだった。  そのオレンジ色の灯火によって、浮かびあがったもの、それは——。  人狼《じんろう》たちの、群れだった。 「わわわ!?」  耕太は飛びあがる。  どすん、とそのまま腰から落ちた。  人狼《じんろう》たちに反応はない。耕太の両側から伸びる燭台《しょくだい》の列の、さらに外側に、人狼たちは群れをなして、思い思いの姿勢で座っていた。その格好は、あのマキリやレラとそっくりおなじ。長い銀髪で、自い着物に黒い帯、白いズボン状の袴《はかま》を穿《は》き、ただし屋内のせいか、足だけは素足だった。頭からは狼《おおかみ》の耳を、腰元からはしっぽを生やし、目つきも、やはり鋭く切れあがっていて——。  そして全員が、その冷たい瞳《ひとみ》を、耕太ひとりへと注いでいた。 「う……」  耕太は、強《こわ》ばる。  凍《い》てつくような眼《め》の、群れ、群れ、群れ。  おずおずと、なんとなく、耕太は、正座してしまった。  床は板間だ。身を縮めつつあたりをうかがうと、かなり空間には余裕があるらしい。床が板であることからも、道場っぽく感じられた。  視線を燭台のあいだへと向ければ、奥に、床より一段高い場所がある。  たぶん……いちばん偉いひとが、座るところ……。  ぐきゅ、と耕太は唾《つば》を呑《の》みこむ。  この、強そうとかなんとかいうより、ひどく冷酷な、獲物を前にした野性の獣が向けるような目つきをした彼らを、従えるひと……長《おさ》。人狼一族の、長。えっと、ぼく、もしかして、エサ? まずは美味《おい》しいところを長が食べて、それから、みんなで……。  耕太の身体は、激しく震えだす。奥歯ががちがちと鳴った。  だ、だだ、だけど……。  耕太は、強引に深呼吸をした。乱れる呼吸を無理に静めて、なんども、なんども、吸って吐いて、また吸って。  ようやく、呼吸は落ちついてきた。  どうじに、身体の震えも落ちつく。 「ほう……」  という人狼たちの呟《つぶや》きを、耕太は聞いた気がした。  すー、はー、すー、はー、と呼吸しながら、耕太は人狼たちを見つめ、そして長が座るだろう奥の座を見つめる。  そうだ……。  ぼくは、望《のぞむ》さんと、また会うんだ……!  あのとき、ちずる不在の耕太たちを襲ったのは、やはりレラだった。  ビルの路地裏にいた耕太、たゆらを、レラはいきなり紫色のもやで包みこんできた。昨夜、耕太がかけられた黒いもやの術とおなじものだった。どうやら、夜だったので紫色のもやは黒く見えていたらしい。  たゆらはあっさりと眠ってしまったが……耕太には、効かなかった。  というより、昨夜よりも効きが悪かった。ちっとも眠くならなかった。もしかすると二度目なので、耐性がついていたのかもしれない。  しかし耕太は、効いたふりをし、その場に倒れた。  前にたゆらが語ったように、レラが耕太を始末する可能性はあったが、だったらわざわざ眠らせたりするだろうか? どうせたゆらはすでに戦闘不能だし、ただの人間である耕太が、人狼《じんろう》のレラから逃れることができるとも思えない。イチかバチか、耕太は賭《か》けた。  なにより、耕太は望《のぞむ》にまた会いたかったのだ。  あのまま『ばいばい』のまま終わるのなんて、我慢できなかった。もし、耕太を人狼たちの隠れ家へと連れ去るのならば、そこにはきっと、望の姿だって……。  まさか全身縛りあげられた状態で、何時間も運ばれるとは思わなかったけれども。  おかげで耕太は、身体のふしぶしが痛んでしかたがなかった。 「——長《おさ》がいらっしゃいます」  耕太がぐききん、と首を鳴らした瞬間、声が響く。  告げたのは、耕太をさらった女性、レラだった。彼女は耕太の縄をほどき、ここに置き去りにしてから、ずっと姿を見せていなかった。なるほど、長を呼びにいっていたらしい。広間の奥、隅の扉から、蝋燭《ろうそく》の載った燭台《しょくだい》を手に、レラはでてきた。  レラの言葉に、耕太を見つめていた人狼たちが、いっせいに前を向く。  奥にある、長が座るのだろう壇上を見た。  耕太は、背筋を伸ばす。  負けないぞ、と思った。だれが相手だって、熊田《くまだ》さんみたいに大きくてごついひとだって、朔《さく》さんみたいに背が高く手足の長いカッコイイひとだって、大海神《おおわだつみ》さんみたいにふんどし一丁でムキムキだって……やっぱり大海神さんは、ちょっと、困るかな……。  と、とにかく、負けない!  望を返してもらうんだと、耕太は鼻から息を強く噴きだした。  と、灯火を持ったレラが、ゆっくりと歩きだす。  その後ろから顔をだしたのは、あの感情のない男、マキリだった。  一瞬、耕太はマキリが長かと思った。が、続けて、彼よりもだいぶ小さな人影があらわれ、どうじに人狼たちがひれ伏したのを見て、この小柄な人物こそが長だとわかった。  本当に、小さい。  いや、それはあくまで前をゆくマキリとくらべたからであって、実際は耕太とほとんど変わらない体格のようだ。まるで女の子みたい……と思いかけ、あれ、じゃあぼく、女の子? と自分につっこみながら、耕太はぐっ、と前にのめり、長へと眼《め》を凝らした。  人狼たちの居ならぶ前を、レラ、マキリ、そして長が、通ってゆく。  長の髪は、まわりの人狼たちとおなじく、やはり銀髪。ただし、みんな長髪なのに、長だけは短髪だった。長《おさ》だから短いのかもしれない。当然ながら、頭頂部からは狼《おおかみ》の耳を生やし、腰からはしっぽを垂らしている。服はほかの人狼《じんろう》とおなじ白い着物に袴《はかま》だったが、やはり長だからだろうか、ちょっとばかり凝った柄が入れられてあった。  そして、壇上にあがった長の、その顔は……。  顔は……。  か、かかか、顔は……。 「あ、あああ、あ?」  耕太の口は、自然とぱくぱくしだす。  言葉にならない声を洩《も》らし続ける耕太の前で、長は、奥の座にどかっと腰をおろした。  あぐらをかいた長の、ぬぼー、とすっとぼけた顔は、やはり——。 「の、のの、の……望《のぞむ》さぁん!?」 「やっほー」  耕太の叫びに、壇上の望は片手をあげ、応《こた》えた。 「な、なぜ? どうして? 望さんが、長……はーっ?」  白い着物姿の望が、にしし、と笑う。  心の底から楽しげな望を前に、耕太は完全に力がぬけた。正座したまま、横にぽてん、と倒れる。九十度斜めの角度から見ても、やはり望は望だった。 「望さん……これはいったい、なんの冗談です……?」  横に倒れたまま、なんだか耕太は泣けてきた。 「ち、ちずるさんも、たゆらくんも、ささやかながらぼくも、すっごく心配して、いろいろやって、望さんのこと、懸命に捜したんですよ……? な、なのに、こんなオチって……望さんが長だなんて、冗談にしたって、ちょっと笑えないです……」 「ん? ジョーダンじゃ、ないよ?」 「だ、だって!」 「——長の前です。お静かに」  思わず身を起こして、耕太はレラに制止された。  レラは、望があぐらをかく壇上のすぐ横に、立ったまま控えていた。レラが立つ逆の側にはマキリが同様にしていて、耕太へあの、熱のないガラスの眼《め》を向けてくる。  耕太は、んじっ、と望を見つめあげつつ、おとなしく従うことにした。  訊《き》きたいこと、いいたいことは山ほどあったが、とりあえずいまは黙って話を聞く。そう決めて、姿勢を直し、元の正座へと戻った。 「小山田《おやまだ》耕太」  とたんにマキリに名を呼ばれた。 「は、はい?」  てっきりレラが話を続けるのかと思いこんでいた耕太は、すこしびくつく。  マキリは、あいかわらずの感情のない目つき、顔つきをしていた。当然、表情もなく、頭から生えた狼《おおかみ》の耳も、腰の後ろに垂れる狼のしっぽも、ほとんど動きを見せない。 「おまえには、姫さまと結婚してもらう」  声にも抑揚がすくなく、まったく機械のような——と、マキリについて考えていた耕太は、理解不能の言葉に、眼《め》をぱちくりとさせた。 「……は?」 「おまえには、姫さまと結婚してもらう。理解したか」  マキリは間髪入れずに答えてきた。  どうやら、耕太の聞きまちがいではなかったらしい。いや、だが、しかし、え? 「あの、えっと、ええ?」 「だから、おまえには、姫さまと結婚してもら」 「そ、それはわかりました! おっしゃることはわかりましたけど、でも、いきなりそんな、結婚って……だって、姫さまって望《のぞむ》さんなんですよね? 望さんとぼくが、結婚……えー? な、なぜ? どうしてですか?」 「なーに、耕太。わたしとケッコン、イヤなのー?」  壇上の望が、眉《まゆ》を悲しげに垂らし、眼をうるうるとさせだす。  それどころか望は、いつのまにか犬がおすわりするような姿勢となっていた。狼の耳はぺたんとつぶれ、しっぽは弱々しく、ぱた……ぱた……と床から小さく動く。 「い、いや、望さんとの結婚がどうとかではなく……といいますか、これはなんなんです? なんだって望《のぞむ》さんはいきなりいなくなって、なんだってぼくのことをさらって、かと思えば長《おさ》で、おまけに結婚だなんて……どういうことなんですか?」 「ううん? わたし、まだ長じゃないよ?」 「え?」 「そうだ……姫さまは、まだ長ではない」  望の言葉をおぎなったのは、マキリだ。 「だから、小山田耕太。姫さまとおまえは結婚するのだ。姫さまが、長となるために」 「すみません! ちっとも意味がわかりません!」  マキリが、望のほうを向く。 「姫さま……よろしいですか」 「うむ、許す」  おすわりしていた望は、元のあぐらへと戻っていた。尋ねたマキリに、偉そうな重々しさでうなずきを返す。 「よし、姫さまからのお許しを得た。小山田耕太、おまえに説明をしよう」 「お……お願いします」  耕太は正座したまま、頭をさげる。  と、がらがらと車輪が転がる音が聞こえてきた。  レラが、どこからかキャスターつきのホワイトボードを持ってくる音だった。望の座る壇の、すぐ横に置く。続けてレラは腰の小刀をぬき、なにごとか呟《つぶや》きだした。  薄闇《うすやみ》のなか、空中に、ぽっと、青白い光が点《とも》る。  おかげでホワイトボードは、じつによく見えるようになった。  準備を終えたのか、マキリは語りだす。アシスタント役のレラは、ペンでボードに書き記し始めた。  マキリが語り、レラが記したのは、以下のとおりだった。 ・望は、かつて人狼《じんろう》たちの長だった男の、娘。(ちずるたちの予想、正解) ・長だった男の名は、ホルケゥ。人の言葉で、狼《おおかみ》の神という意味らしい。 ・前の長、ホルケゥは、人狼の一族を捨て、里から飛びだした。 ・そのとき、まだ赤子だった望も連れていった。 ・ホルケゥが一族を捨てた理由は、不明。一説によれば、ゴールデン・レトリバーであるメスの西洋|妖犬《ようけん》の尻《しり》を追ったとか、なんとか……人狼たちは必死で捜したが、臭《にお》いすら残っておらず、居場所はまったくつかめなかった。  望が〈葛《くず》の葉《は》〉にいたわけは、たぶん、女を追う際、邪魔になったから捨てたため。  『こぶつきでは女も嫌がると、てれびでいっていた』とはレラのコメント。  なんともすさまじい話であった。  と、いうより、すさまじい親であった。マキリの話を聞き終えても、またレラの記したなかなか達筆なホワイトボードの文字を見返しても、ちょっと信じられない。 「これじゃ、ただのバ……」  バカ親、といおうとして、耕太は壇上の望《のぞむ》に気づき、止《や》めた。  いくらバカでも、望さんにとって親は親だ……。もっとも望は、マキリの話が退屈だったのか、大きくあくびし、むにゃ……とのんきに目元をこすっていたが。 「あの……で、どうしてぼくは望さんと結婚しなくてはならないんです?」  いちばんの疑問を、耕太はマキリにぶつけた。 「我らは、ずっと姫さまを求めていた。我らの長《おさ》となるべきこのかたを、求めてきた。わかるか。我らは人狼《じんろう》……本能が、群れることを求める。群れの中心となる長の存在を求める。しかし、ホルケゥが我らを捨ててのち、長はいなかった。ずっといなかったのだ」 「長がいなかった……どうしてですか?」 「……我らは長を求める。だがしかし、姫さまはまだ、長にはなれぬ」  耕太の問いは、なぜか無視された。あれれ? 「なぜなら姫さまはまだ、大人ではないからだ。ホルケゥによって連れ去られ、赤子のときより里にはおられなかったため、成人の儀式を受けることがかなわなかった。ゆえにまだ子供。大人でなくては、長にはなれぬ。我らとしては一刻も早く姫さまに大人になっていただき、めでたく長となっていただきたいのだが……しかし、つぎの成人の儀式は、春。木の芽の芽吹くころだ。とても待てぬ。そこで、結婚だ」 「え……っと」 「わからないか、小山田耕太。まず、大人になるとはどういうことか。いままでの自分を捨てるということだ。捨て、新たな自分に生まれ変わるということだ。そして、結婚……いままでの自分を捨て、夫の元へと嫁ぐ……おなじだろう」 「かなり強引な気が……」 「とにかく、小山田耕太。おまえには姫さまと結婚してもらう。これは、姫さまのご希望でもあられるのだ」 「望さんの……希望?」 「おう! そーだよ、耕太!」  うとうとしかけていたはずの望が、ぱっ、と元気よく立ちあがる。 「わたしの髪が肩まで伸びなくても、ケッコンしようよ、耕太!」  その言葉に、まわりの人狼たちから拍手が起こった。  ばばばばーん、と、なにやら口ずさみだす。それは結婚行進曲だった。練習したのか、させられたのか、やたらとぎこちなかったが、じつに男らしく、そして野太かった。      ★  耕太は、あぜ道を歩いていた。  あたりは見渡すかぎり、一面の畑だ。吹きぬけるすこし冷たい秋風に、穂がさざ波を打つ。空は青い。見事なまでの秋晴れだった。  彼方《かなた》には山なみがゆるゆると延び、まさに耕太の故郷そっくりな、心落ちつく風景が広がっていた。  しかしいまの耕太に、景色を見ているゆとりはない。  結婚……かあ……。  耕太は、もう何度目なのか、忘れてしまったくらいのため息を、ついた。 「——どうしました、小山田さま?」  尋ねてきたのは、耕太の前をゆく、レラだ。  レラは、耕太の数歩先をゆき、ふた振りの細く長い銀髪の三つ編みと、腰から垂らしたしっぽを揺らしていた。そのレラが、振りむき、あの切れあがった銀色の瞳《ひとみ》を、耕太へすっと向けてくる。 「い、いえ、なんでもないです、すみません」  あわてて手を振る耕太に、レラは、くす、と笑った。 「こちらこそ申し訳ありません、小山田さま。ヒトの社会、しかも都会で暮らす小山田さまには、こんななにもないところ、さぞ退屈でしかたがないでしょう」 「そ、そんなこと! ぼく、一年前まではずっとこういうところに住んでましたから!」  いま耕太は、レラに人狼《じんろう》の里のなかを案内されていた。  最初に連れられた、薄暗く広い場所。あそこは長《おさ》の屋敷の一部だった。外にでて見ると屋敷はじつに大きく、なるほどとうなずける。壁も屋根も木材でできていて、かなり年季が入り、ところどころ修復のあとはあったが、かなりしっかりした建物だった。 「すごくここ、懐かしいです……本当に……」  レラにそう答え、耕太はあらためてまわりの景色を眺めた。  本当、この里は耕太の故郷とよく似ていた。  もちろん違うところはある。たとえば、ここには田んぼがない。畑だけのようだ。気候のせいなのか、人狼だからなのか……レラの説明では、芋や稗《ひえ》、粟《くり》、黍《きび》、行者にんにくなどを作っているとのことだった。お米なんかはないらしい。  畑には、それら作物を収穫する人狼たちの姿があった。  いまは十月、収穫の時期。みなで芋を掘ったり、稗を刈ったりしていた。当然のことながら、みな人狼である。さきほど、長の屋敷にいたときは見なかった、女性や子供の人狼が、狼《おおかみ》の耳、しっぽをだしっぱなしで、農作業にいそしんでいた。  なお、大人と子供で、耕太に対する反応は、それぞれ違っていた。  大人は、警戒心もあらわに、じろりと耕太を睨《にら》んでくる。いっぽう、子供たちはものめずらしそうに耕太を眺めては、ひそひそと話し、はしゃぐ。子供の無邪気さに、ふふ、と耕太は思わず笑みをこぼしてしまった。 「申し訳ありません、小山田さま」  突然、レラが頭をさげた。 「え? な、なんですか?」 「あやつらの態度です。小山田さまは姫さまの夫となられるかた。そのおかたに、あのような失礼な態度を……」  レラは畑にいる人狼《じんろう》の、とくに大人たちを睨みつける。 「いやいやいや、べつにいいですよ! あの、こういったらなんですけど、ぼく、人間であって、つまりよそ者ですし、すごく当たり前の反応かと」 「おやさしいんですね、小山田さまは……」  レラが微笑《ほほえ》む。  そ、そんなことは、と耕太は下を向いた。  耕太が望《のぞむ》の結婚相手ということになったからだろうか、レラの態度や言葉づかい、そして表情は、がらりと変わっていた。ときおり、やさしげな表情まで見せる。まあ、もうひとりの人狼、マキリのほうはまったく変化なく、永久凍土のままだったが。  耕太とレラは、またあぜ道を歩きだす。 「言い訳するつもりではありませんが……里のものたちが小山田さまにああいった態度をとるのには、理由があるのです」  歩きながら、レラはいった。 「知ってます。すこしだけ……ですけど」  下を向いたまま、耕太は答える。  望を捜していたとき、ちずるから聞いたことを思いだしていた。 『人狼たちの国なんて、ない』『ニンゲンたちや妖《あやかし》と揉《も》めて』『玉砕』『生き残ったのは朔《さく》みたいな、生きるのにどん欲なやつだけ』……を、耕太はぽつぽつと語る。 「そうですか……しかし、小山田さま」  聞き終えたレラが、いった。 「ひとつだけ、我らの一族には当てはまらないことがありますね」 「え……」 「我らの一族が生き残ったのは、決して、そのちずるさまがおっしゃったように、『生きるのにどん欲だったから』などではないのです。ただ……臆病《おくびょう》だっただけ」 「おく……びょう?」 「ええ。多くの仲間たちは、かの〈葛《くず》の葉《は》〉をはじめとする、ヒトが作りあげた退魔の組織や、ほかの妖の集団と争いになったとき、敵《かな》わないまでも、いさぎよく散りました。また、ヒトの世にまぎれ、泥にまみれながらも、生きぬくことを選んだものもいます。まさに『生きるのにどん欲』というやつですね。ですが、我らの一族は……」  レラの肩は震えだし、と思ったら、笑いだした。 「ふふ、ふふふ、美しく散ることも、汚れながら生きぬくこともできず、こそこそ山奥に隠れ、群れなしてひっそりとただ生きるだけ……わかりますか? 『生きぬく』と『ただ生きる』は違うんです。ふふ、わたしたちはなんて臆病《おくびょう》ものなのだろう。ふふふ、ふふ」 「レラ……さん?」  突然、レラの笑いは止《や》む。 「だから……長《おさ》は……ホルケゥは、わたしたちのことを……」 「え?」 「いえ、なんでもありません」  くるりと振り返り、レラはいった。 「わたしたちは臆病で、ひどく弱い。だからこそ、姫さまのような強い長が必要なのだという話でした。さあ、小山田さま、いきましょう。小山田さまに、ぜひご案内したい場所があるのです」  レラが、足早に進みだす。  耕太は、首を傾《かし》げながらも、追った。  そのまま歩き……たどりついた先は、里のかなり外れにある、雑木林だった。  林というより、ほとんど森だ。まわりには、耕太の腰までもある丈の長い草がびっしりと生えていた。レラと耕太は、草のあいだにある細い道を歩く。おそらくは、里のものが長いあいだ使うことで作られたのだろう、いわば獣道とでもいうべき、踏みつけられてできた草の道だった。とてもその道以外は、歩けそうにもなかった。 「あの……こ、ここは?」 「この森をぬければ、里の外です。とはいえ、ヒトの身ではかなり困難なことだと思われます。見たとおりに深い森ですし、野性の獣も多い……なにより里の周囲には、わたしたち代々の巫女《みこ》によって作りあげられた、強力な結界がありますので」 「つまり、脅しですか……?。というか、ぼくに案内したい場所って、そういう」  なんだか耕太は、しょぼーん、としてしまった。  レラとはすこし通じあえた気がしたのに、やっぱり自分は異邦人……というショックもあるし、強力な結界が張ってあるということは、ちずるたちの助けは期待できそうもないというショックもあるしで、すっかりうなだれる。 「いえ、ただ、危険ですのでと。それと、案内したいのはそこです」 「え?」 「こちらです」  レラは、森からすこし離れた場所に、ぽつんとある一本の樹《き》の前にいた。 「この樹は……」 「山桜です。この山桜の下に……姫さまのお母上は、眠っておられます」  耕太は眼《め》を見張る。  すっかり葉を落とし、枝のみとなった暗褐色の樹《き》を、見つめた。 「我らの一族は、死んだのち、樹の傍らへと埋められます。そして樹の糧となり、樹とともに生きてゆくのです」 「望《のぞむ》さんの……お母さんは……」 「元々、あまり身体の強くないかたでした。姫さまをご出産なされたあと……いわゆる、産後のひだちが悪いというやつで……」  耕太は、樹に向かって両の手をあわせた。  それは拝む姿勢だった。自然と、そう身体が動いていた。 「姫さまは……この樹の前に立ったまま、しばらく微動だにされませんでした」  耕太は、祈る。  眼をつぶり、無心となって、ひたすら、胸に湧きおこったなんともいえない感覚を、桜の樹に、そして樹の向こうに在るものに、捧《ささ》げた。      ★  陽《ひ》が、山陰へと沈みゆく。  耕太とレラは、あかね色の光をその身に浴びながら、畑のあぜ道を戻っていた。  会話はなく、ふたりとも無言だった。  と、前をゆくレラが、立ち止まる。 「あなたたち……」  耕太が見ると、レラの前に、人狼《じんろう》の子供たちが、いた。  小さな身体に小さな着物、小さな狼《おおかみ》耳に小さな狼しっぽと、じつにかわいらしい子供たちが、男女あわせて六人、あぜ道いっぱいにひしめいているのだった。 「どうしたのです? こんなところで」  レラの問いに、子供たちはうつむき——ぱっ、と顔をあげた。 「ねーねー、そこのニンゲンって、ホントに姫さまとケッコンするのー?」 「ニンゲンなのにー? わたしたちとちがうのにー?」 「ちっちゃいのにー? 弱そーなのにー?」  いちど口火を切ると、なかなか止まらない。ぼくもわたしもおれもと、子供たちはつぎつぎに質問を浴びせかけてくる。わーわー、きゃーきゃー。 「静かにしなさい」  レラの声に、子供たちはぴた、と黙りこんだ。 「姫さまと小山田さまの結婚は、姫さまご自身が決められたこと。いい? わたしたちにとって、長《おさ》の命は絶対なの。逆らうことは許されないのよ。姫さまはまだ長ではないけれど、いま、いちばん偉いかた。その姫さまが決めた、小山田さまは夫なの。これ以上、弱いとかかわいいとか、失礼なことをいうと……」  子供たちが、びくく、と震える。  レラの後ろに立つ耕太からは彼女の顔つきは見えなかったが……よほど怖《おそ》ろしい形相に変わったらしい。 「れ、レラねーちゃん、こわいい」 「そ、そんなんじゃ、マキリも逃げちまうぜ! コンキ、逃すぜ!」 「あ、わたし知ってるー。レラの年でコンキ逃すと、マケイヌになっちゃうんだよー?」 「——いってる意味がわからないが?」  地を這《は》うような声を発したレラに、子供たちは硬直した。 「あ……あう……ひぐっ」  瞳《ひとみ》をうるませ、もう、泣きそう。  やはりレラの後ろに立つ耕太からは彼女がどんな表情かわからなかったが……あのイヤリングつきの狼《おおかみ》の耳はぴーん、と立っているし、髪やらしっぽやら、毛なみがざわついているしで、なんとなく想像はできた。  とうとう、子供たちはしゃくりあげだす。  あ、そうだ、と耕太は自分のポケットに手を差しいれた。 「これ……食べる?」  お菓子をとりだす。  それは修学旅行のとき、バスなんかの移動中に食べていたお菓子だった。ちずるやクラスメイトからもらった、キャンディーにチョコレート、スナック菓子など、ひと口サイズの袋に入ったやつで、食べきれず、ポケットに入れっぱなしだったものだ。  人狼《じんろう》の子供たちは、泣くのも忘れ、じっと耕太の手のひらを見つめだす。  手のひらにある、色とりどりのビニールに包まれたお菓子たち……子供たちはまばたきひとつせず、身体も動かさず、狼の耳としっぽも微動だにさせない。  おずおずと、お菓子からレラへと視線を移した。 「いただきなさい」  すぱっ、と子供たちはどうじに手を伸ばす。  耕太の手は引っかかれ、思わずお菓子を落としてしまうも、地面につく前に瞬時にとった。ビニール袋ごとがきごきとかじりだし、「こら、包み紙はとりなさい!」とレラにたしなめられる。 「うおー、なんだこれ、うめー! うめーよー!」 「こ、これがヒッサツワザなんだ! ニンゲンのヒッサツワザ、餌《え》づけなんだ!」 「うう〜、野性のチカラが失われてゆくよ〜」 「うえ〜ん、甘いよ〜、おいしいよ〜、ニンゲンこわいよ〜、でももっとほしいよ〜」  泣きながらも、子供たちは口にほおばったお菓子をだすことはできない様子だった。  なんか、かえって悪いことをしてしまったような……耕太はそう思いつつ、ポケットにまだあった残りのお菓子を、すべて子供たちへと渡す。  さらなる涙が、子供たちの眼《め》からあふれでた。  そして去りゆく耕太の背に向かって、子供たちは泣きながらお菓子をほおばりつつ、いつまでも手を振り続けるのであった——。 「あの……さっきの、子供たちの話なんですけど……」  耕太は、遠ざかる子供たちがまだ振っている手をちらちらと見ながら、尋ねた。 「ぼくと望《のぞむ》さんが結婚して、本当にレラさんたちはいいんですか? だってぼく、ただの人間なんですよ? 望さんはレラさんたちの長《おさ》になるわけで、つまりただの人間が、長の夫になるということに……」 「さきほど、あの子たちにもいいましたが……長の命は絶対です」  それに……とレラは続けた。 「小山田さま、あなたはただのニンゲンなどではありませんよ」  ぴた、と耕太は立ち止まる。 「……は?」  ぶんぶんぶん、と両手だけでは足りず、耕太は首まで振った。 「いえいえいえ、ぼ、ぼくはただの、ごくごく普通の人間ですよ!?」 「いいえ……」  レラが振りむく。  その白い肌を、銀色の髪を、落日の紅に染めながら、いった。 「覚えていますか、昨夜のことを。わたしとマキリが、あなたに初めて出会ったときのことを。そのときわたしは、[眠りの雲]という術をかけました」 「あの……眠くなる紫色のもや、ですか」 「ええ。しかしあなたには効かなかった。わたしは、今日もあなたにかけたのですが……やはり効きませんでしたね。それも、まったく」 「そ、そそ、そんなことは」  眠ったふりをしたの、バレてる? 焦る耕太に、レラは薄く唇を曲げ、笑った。 「わかりますよ、それぐらい……一瞬、わたしの巫女《みこ》としての誇りはズタズタになりましたが……しかし、あなたといっしょにいた妖狐《ようこ》の男には通じたことで、わかりました。あなたは普通ではない。考えてみれば当然ですね、あの姫さまが選んだ男なのですから」 「いや、でも、それは……」 「まだお認めになりませんか? あの[眠りの雲]という術は、野性の熊《くま》ですら瞬時に眠らせることができる術です。マキリや、おそらくは姫さまですら、三つ数えるあいだも雲のなかにいれば眠りにつくでしょう。もっともマキリや姫さまなら、雲を見た瞬間に逃れるでしょうが……」 「き、効きました! すっごく効いて、身体に力が、ぜんぜん……」 「十は数えるあいだ雲のなかにいたのに、その程度とは……」  レラはうなだれ、はー、とため息をつく。あ、あれ? もしかして落ちこませた? 「はっきりいいましょう。小山田さま、あなたは妖《あやかし》の術に対して、きわめて強い耐性を持っています。普通のニンゲンなどでは、ぜったいにありません」  レラは耕太を見つめ、きっぱりといいきった。 「ぼ……ぼくは……ぼくが?」  耕太は、手のひらを見つめた。  夕陽《ゆうひ》に赤く染まるこの手は、背の低さとくらべれば、大きめの手だ。クラスメイトとくらべても、けっこう大きい。ちずるは『手が大きいということは、身体も大きくなるってことだよ、耕太くん。それに、あっちも……いや、そっちはもう充分に……いやん』といっていたが……しかし、あくまでただの手だ。  そーいえば。  ちずるにとり憑《つ》かれて、妖狐《ようこ》へと変化《へんげ》するたび、耕太はすこしずつ妖怪《ようかい》に近づいてしまっているなんて話が、たしかあった。それかな? それだろう。うん、そうに決まってる。耕太はそうだと決めた。ぼくは妖怪になってるんだ! がおー!  決めつけ——ふと、気づく。  顔をあげ、まわりを見た。なびく畑の穂を、遠くの山なみを、沈む赤々とした太陽を見た。似ている。この里は、自分の故郷と似ている。人狼《じんろう》たちが隠れ住むための、里と。 「まさか……ね」  耕太は首を振りながら、歩きだしたレラのあとを追う。  じつはぼく、隠れ住んでいたなんて……まさかあ。  まさか、まさか。      2 「こーおーたーくーん!」  ちずるは耕太を求め、ひたすら捜しまわっていた。  七本しっぽを生やした、全開バリバリ状態でだ。その姿で両手を伸ばし、いわゆるスーパーマン姿勢で、北海道中を飛ぶ。飛びまくる。  すでにちずるの格好は、ぼろぼろだった。  艶《つや》やかだった金髪も、狐《きつね》の耳も、七本しっぽも、毛なみはばさばさとなり。白い頬《ほお》には泥汚れや擦り傷をつけ、薫風《くんぷう》高校のブレザーの制服は傷みまくり。なぜならば、ちずるはすでに——。  襟裳岬《えりもみさき》では「本当になにもない! 耕太くんもいない!」と失礼なことを叫び。  白樺《しらかば》の白く細い樹木が立ちならんだ群生林を飛びぬけ。  知床《しれとこ》五湖、阿寒《あかん》湖、摩周《ましゅう》湖、屈斜路《くっしゃろ》湖を巡り。  あまりのやるせなさに意味もなく網走《あばしり》刑務所前でニポポ人形の首をへし折り。  富良野のラベンダー畑を滑空して花びらを舞いあがらせ。  いきおいあまって秋田から津軽海峡・秋景色を眺め。  などなど、とにかく北海道中をひたすらにあてもなく駆けまわっていたのだから。  しかし、ちずるは元気だった。  身体中ぼろぼろだったが、愛《いと》しの耕太のため、気にもしない。  もっとも——ちずるの七本しっぽの一本にしがみつき、いっしょに北海道中を休憩なしで飛びまわっていたたゆらは、もうすぐ死にそうになっていたが。 「ちょ、ちょっと、休もうぜ、ちずる……」  すっかり陽《ひ》も沈み、空には星がまたたくなか、たゆらは日本の最北端、稚内の宗谷岬からサハリンを望みながら、いった。 「——あん?」  星空の下、サハリン方面の海に向かって『こーおーたーくーん!』と叫んでいたちずるは、へたりこむたゆらを睨《にら》みつけた。 「なにが休むよ! 耕太くんがまだ、見つかってないのに! どこにも手がかりがないのに! ああ、いまごろあのクサレ人狼《じんろう》の男に耕太くん、食べられてたらどうしよう!」 「食べられるって……どっちの意味でだ?」 「どっちの意味でもよ、バカ! というか……くっ、きっとあいつらの背後には、かなりの軍師がいる。わたしが〈龍《りゅう》〉の力を完全にコントロールできてないのを見切ったうえに、耕太くんの手前、人狼の男を半殺しにすることもできないって、わかってたんだ! おかげでのうのうと逃げられ……ああ、おまえが役立たずなのも見切られてたし! 耕太くん……どこに消えたのおおおお」 「ふっ……まさにオホーツクに消ゆ、だな……」 「やかましい!」  ちずるはしっぽで横殴りにした。  べちーん、とたゆらはすっ飛び、危うく岬の崖《がけ》から海へ落下しそうになる。必死で岩肌にしがみついた。 「ちょ、ちょっと待てよ! いいのか、せっかく耕太の手がかり、思いついたのに!」 「なに! それを早くいいなさいよ!」  ちずるはたゆらの元へと走る。  しっぽを伸ばしてたゆらの胴に巻き、持ちあげた。 「ほえー……便利だな、これ……」  自分の胴のまわりに巻きついた金色のしっぽに、たゆらはさわさわと触れる。 「んなこたいいから、早く答えなさい! なに、耕太くんの手がかりって!」 「いや、耕太の手がかりっつーか、人狼たちの手がかりだけどな……その前に、ひとつ答えてくれねーか、ちずる」 「なによ!」 「耕太と合体しなかった理由だよ。いっちゃ悪いが、耕太にとり憑《つ》いて妖狐《ようこ》に変化《へんげ》さえしていれば、こんな人狼《じんろう》たちの罠《わな》なんか、かかりはしなかったんだぜ? ちずると合体して、パワーアップしておいたほうが、耕太の身は安全だったわけだし……『合体しよう』ってせがむ耕太を、ちずる、おまえは強引に振りきったよな? なんでだ? いつのまにか〈龍《りゅう》〉を六体も従えていたことといい……いまちずるの身に、なにが起きてる?」  ちずるは、持ちあげたたゆらを、黙って見あげていた。  たゆらも、黙って見返す。  ふー、と、ちずるが長々と息を吐いた。 「……まあ、おまえには知っておいてもらったほうがいいか。万が一のとき、耕太くんを守ってもらうためにもね」 「あん? 耕太?」 「わたしの身には、八体の〈龍〉が眠っている」 「は、八? あと二匹か?」 「そう。そしてその残り二体は、おそらくは近い将来、目覚める」  たゆらは、一瞬、呼吸を止めた。 「……八匹ぜんぶ、でてくるってのか? それって……ちずる、おまえの身体はだいじょうぶなのか? けっこー……六匹のいまの状態でも、ぎりぎりじゃねーの?」 「平気よ。だけど耕太くんにはいわないで。余計な心配、するから」 「コラコラコラ。さっきちずる、おまえは『万が一のとき、耕太くんを守ってもらうため』っていってたじゃねーか! どういうことだよ、万が一ってのは!」  たゆらはしっぽに持ちあげられたまま、激しく足をばたつかせた。  ちずるが、笑う。 「たゆら……おまえは、わたしを、この源《みなもと》ちずるを、自分の姉を、信じられないの?」  ぴた、とたゆらの動きは、止まった。 「……信じて、いいんだな?」 「くどい」  しばらくたゆらはちずるを見つめ続けていたが、やがて、がくりとうなだれる。 「わかったよ……どーせ姉さんがいちど決めたことは、もうなにをやったってくつがえりやしねーんだ。いつもどおり、おれは無茶苦茶な姉の尻《しり》ぬぐいをさせられるわけだろ? もう慣れちまったよ……六十年、おなじことやってんだから……な」 「ありがと、たゆら……」  ちずるはすこしうるんだ瞳《ひとみ》を、たゆらにやさしく注いでいた、が——。 「さーて、話は終わりね? じゃあ耕太くんの手がかり、ちゃっちゃと話せ!」 「ぬはっ! ひさしぶりの姉弟のやりとりじゃねーか、もうちょっとしみじみさせてくれよ……ああ、やだ! 女ってのは男ができると、ホンット変わるよなあ?」 「男だって女で変わるでしょーが。おたがいさまよ。ほれ、手がかり、早く」 「わかったよ……あのな、蛇の道は蛇っていうだろ? ちずる、覚えてねーのか? 昔、北海道で神さまだなんだってあがめられてたやつ、ひとり知りあいにいるだろ? ほれ、あの大男だよ」 「あ……」 「あいつなら、神さまやってたぐらいだ、人狼《じんろう》の一族についてなにかわかってるかもしんねーし、たとえわかんなくても、こっちに顔見知りのひとりやふたり、いるだろーし。なんにせよ、こうしてあてもなくさまようよりは、マシじゃねーのか?」 「た……たゆら! ああ、我が弟よ!」  ちずるはしっぽを巻きつけていたたゆらを引きよせ、抱きしめた。 「ぐはっ! ち、ちずる……しっぽ……しっぽまで、締まってる……お、おお、でる……口からなにか……な、内臓が……このままじゃ、身体になにも、ないぞうに……」  喜ぶちずるは、自分がしっぽまで締めつけていたことに気づいていなかった。ひたすらに抱きしめ、しっぽでもぎゅー、で、やがて……わなわな震えていたたゆらの腕が、すとんと落ちた。      ★  夜も更け……。  耕太は、望《のぞむ》とふたりっきりで、いた。  長《おさ》の寝所にだ。部屋のなか、たったひとつしか敷かれていない、なのにまくらはふたつある緋《ひ》色のふとんの上にだ。照明といったら寝具そばに置かれた一本の燭台《しょくだい》だけで、そのオレンジ色の灯火がやたらめったらなまめかしい空間にだ。  耕太は、真っ白の浴衣姿だった。  里にあった温泉《おんせん》風呂《ぶろ》からあがったら、用意されていたものだった。というか、着ていた学校の制服はなくなっていて、これしか脱衣カゴには置いてなかった。  望は……えーっと、ドレス?  なんといえばいいのだろう、とにかく黒く、ひらひらしていた。  黒いといってもただ黒いわけではなく、じつに上品な光沢を持つ、黒い生地のドレスだ。長袖《ながそで》の腕や、胸元、腰と、上半身はぴったりかつひらひらなフリルつきで、身体のラインを浮かびあがらせていたのに、スカートはふわふわと広がり、丸い。首のまわりや、手首にはひらひらの白いフリルつき。銀髪の頭には蝋燭《ろうそく》の炎にきらめく銀のティアラをのせ、ふわふわスカートの裾《すそ》から覗《のぞ》く、ぺたんと外向きに曲げて女の子座りにした脚は、黒いストッキングに包まれてあった。 「あの……望さん」 「ん? なに、耕太」 「いろいろとお訊《き》きしたいことはたくさんあるんですが……とりあえずひとつだけ、すみません。その格好は、いったいなんですか」 「ん? ごすろり」 「ご、こご?」 「ごすろり。ごしっく・ろりーたの略。あのね、わたし、あまりせくしゃる・あぴーるが足りないでしょ? ほら、ちずると違って、おっぱい、ないないぷーだし。お尻《しり》もちっちゃいし。だから、こっちの路線も、いいかなって」  望《のぞむ》は座ったまま、スカートの裾《すそ》を持ちあげる。ふわわ〜、と広がった。 「え……ええ。す、すごく似あっているというか、か、かわいいと思います」  うーん。望は、ティアラをのせた頭を、ひねる。 「耕太、あまりごすろり、だめか……」  さきほど広げたふわふわスカートのなかに手をつっこみ、望がとりだしたのは一冊のメモ帳であった。その表紙はよれていて、けっこう使いこまれた感じを受ける。  挟んであったペンで、望はなにごとか記し始めた。 「望さん……そのメモは?」 「ん? 耕太ノートだよ?」 「こ、耕太ノート?」 「そーだよ。耕太についてわたしが気づいたこと、なんでもメモした伝説の書物だよ。だいじょーぶ。名前書いても、死んだりしないから」 「あの……どんなことが書いてあるんでしょうか」 「ん? 知りたい? あのね……えーと、『コウタはおっきいおっぱい、スキ』『いまはちいさいおっぱいも、そこそこスキ』『コウタはチズルのニオイに、ヨワイ』『ちょっぴり、おしりにもキョーミが?』で、あとは……」 「も、もう結構です……」  耕太はぐったりとうなだれた。的確すぎて、反論すらできない。  望は、ん? と首を傾《かし》げていたが、またメモへの記入へと戻る。すらすらとペンを走らせた。 「よし、じゃあ、つぎだ!」  ぱたんとメモを閉じ、いった。 「つ、つぎ?」  耕太が顔をあげると、望の表情はすごく険しくなっていた。  鋭く細めた眼《め》、眉間《みけん》の皺《しわ》、への字になった唇……え? と思う間もなく、そのへの字口が開く。 「べ、べつにあなたのことなんて、スキでもなんでもないんだから! たしかにケッコンするっていったけど、そ、それはあくまで長《おさ》になるためしかたなくであって、イヤイヤだし、ましてあなたとこうなること、ずっと夢見てたなんて……ば、バカ、なにをいわせるのよ! もう、耕太のことなんて、知らないんだから!」  矢継ぎ早に言葉をくりだし、つーん、と横を向く。 「……ほえ?」  眼《め》をぱちくりとしかできない耕太を、ちら、と横目で見てきた。  ん? と首を傾《かし》げ、またスカートに手をつっこむ。こんどはメモではなく、一冊の文庫本をとりだした。緑色の背表紙で、表紙に女の子の絵が描かれたその本を、開く。しおりを挟んであったらしいページを、読みだした。 「んー……あ、そーか。ここで照れて、真っ赤にならないとダメなんだ」  きゅっ、と頬《ほお》を引き締め、望《のぞむ》は固まる。  どうやら息を止めているらしい。白かった顔が、みるみる真っ赤に……。 「って、望さん! それは身体によくない!」  耕太は膝立《ひざだ》ちとなって望の両肩を揺すった。  望は、ぷはー、と詰めていた息を吐きだす。 「の、望さん、その本はなんなんですか」 「ん? つんでれの参考書」 「つ、つんでれ?」 「むずかしいな……つんでれ……」  またもや耕太の理解できない単語を発した望は、腰をひねって、後ろにあるまくらの上、敷き布団そばの床へとその本を置く。耕太が眼を凝らすと、表紙には『ゼロの使……』と書いてあるところまで読めた。 「望さん……教えてください」  耕太は、望の前に正座した。 「ん? なに?」 「望さんは、最初っからぼくと、こうして結婚するつもりだったんですか?」  うん、と望はあっさりうなずく。 「じゃあ、どうしてあのとき……ホテルの屋上で、ぼくに『ばいばい』なんていったんです? いなくなったふりなんかしたんです? さよならする気なんて……ぜんぜんなかったのに!」  んー、と望はまぶたを閉じ、考えこみだす。 「あのね……わたし、本で読んだんだけど、大切なものって、失《な》くしたときに初めてわかるんだって。耕太、知ってた?」 「き、聞いたことは……って、ま、まさか?」 「そう、そのまさか。耕太、どうだった? わたし、大切だった?」 「そんな……ぼく、本気で心配して……望さんがいなくなって、胸に、穴が空いたみたいになって……ぼくが、望さんに訊《き》かれてた、『耕太にとって、わたしはなに?』に真剣に答えなかったから、だから望さん、いなくなったって……」  耕太は、垂れそうになった鼻水を、すすりあげる。  涙でゆがみきった視界のなか、望《のぞむ》をまっすぐに見た。 「……望さんは、ぼくにとって、すごく大切でした」  望がうなずいた……気がした。もう耕太の視界はぐちゃぐちゃで、わからない。 「じゃ、ケッコンする?」 「ふえ?」  手の甲で涙をぬぐいながら、耕太は聞き返す。 「わたしのこと、すごく大切だったんでしょ? じゃあ、わたしとケッコンする? だいじょーぶだよ、耕太。べつにわたし、長《おさ》になるからって、耕太はなにもしなくていいから。ただ黙って、ここでのんびり暮らせばいいから」 「で……でも……」 「ちずる?」  耕太はためらい、しかししっかりと、うなずいた。 「ぼくは……ちずるさんが……」 「でも、耕太がケッコンしないんなら、わたし、ほかのオトコとケッコンするよ?」 「うええ?」 「しかたないよ。だって、わたし、バカ親だった父さまのムスメだもん。父さまがここのひとたちにやったことのセキニン、きちんと果たさなくちゃいけないもん。で、ここのひとたち、みんな、はやくわたしに長《おさ》になってほしいみたいだし……だから耕太がダメなら、里のだれかとケッコンしなきゃ」  望《のぞむ》は、平然と、とんでもないことをいいだす。 「さ、里のだれかって、だれです?」 「んー……わかんないけど、たぶん、いちばん強いのじゃないかなー。耕太もわかるでしょ? 里のなかで、だれがいちばん強いのか」 「マキリ……さん」  あの、感情を消した男。  ガラスの瞳《ひとみ》を持った、男……。  耕太は、正座した太ももの上に置いた手を、ぎゅ、と握った。なんとかしたい。望がほかのひとのものになるなんて、止《や》めさせたい。だけど、どうすればいい?  望と、結婚する……?  耕太は首を横に振る。そんなことはできなかった。たしかに望は耕太にとって大切なひとだ。そうなのだと知った。が、ちずるはもっと大切なひとだった。残酷ではあったが、ちずると望を耕太の天秤に載せれば、ちずるの側にしか傾かない。  でも……だけど?  望が、ほかのひととケッコンする……? あのマキリと……? 耕太はうつぶせとなり、ふとんを、ぎゅ〜っと握りしめた。  ううう、とうめく。 「ぼくは……ぼくは……」 「あ、そーそー、耕太」  はい? と耕太が顔をあげると、望はにっこりと微笑《ほほえ》んできた。 「ケッコンするの、明日だからね」 「えええええ!? あ、明日!?」 「うん、そう。だってみんな、早くわたしに長になってもらいたいっていうんだもん。だから、ぱぱーっと。わかった? 決めるんなら今夜のうちだよ? 明日になると、もう、ケッコンだからねー? じゃ、耕太、おやすみー」  望はそういうなり、ごすろりな衣装を脱ぎ、頭のティアラも外し、のーぶら、黒ぱんつ、ストッキングの幼い体つきとなって、ふとんのなかへと潜りこんだ。  すぐに寝息をたてだす。  頭をぽてんとまくらにのせ、緋《ひ》色のふとんのなか、丸くなってすよすよと眠る望。彼女の横で、耕太は一晩中、まんじりともせずにすごす。  ええ? 明日? もう? 望さん? 結婚? ぼくは? ちずるさん?  そして、朝を迎えた。      3  婚礼の会場は、あの、耕太が最初に連れてこられた、薄暗い場所だった。  戸や窓がぜんぶ閉めきられ、ならぶ燭台《しょくだい》の灯火だけが頼りのなか、たくさんの人狼《じんろう》に囲まれ、かと思ったら長《おさ》が望《のぞむ》だったので、耕太はずっこけてしまった広間だ。その、長の屋敷のひと部屋だった不気味な場所は、すっかり様変わりをしていた。 「わあ……」  それはもう、物陰から見ていた耕太が、声を洩《も》らしてしまうほどに。  窓を大きく開き、外気や陽光をぞんぶんにとり入れただけで、こうも変わるものか。秋の日ざしのもと、板敷きの床や壁は、時代劇なんかでよく見る、昔の剣術の道場みたく映った。かなり古びてはいるものの、きちんと手入れされ、汚さはまったく感じられない。  すこし涼しい秋の風が、広間を吹きぬけてゆく。  居ならぶ人狼たちの銀髪や、白い着物がなびいた。  広間には、大人の屈強な身体つきをした人狼のほか、お年寄りや女性、子供がいた。ざわめきのなか、赤子の泣き声すら聞こえる。どうやら里にいる人狼はほとんど集まっているようだが……耕太が思っていたより、里の人数は多くないらしい。  人狼たちは、広間の真ん中一列を大きく開け、そのまわりにあぐらをかいていた。  列には、料理がならぶ。  大皿に載った料理だ。豚の丸焼き、鮭の丸焼き、芋や、米、栗《くり》、稗《ひえ》などの穀物に、きぶどうや野いちごなどの山の果実など、さまざまな料理が、ところ狭しとあった。 「さあ、そろそろ、小山田さま……」  と、レラがうながしてくる。  耕太とレラは、昨日、長——のふりをした望がでてきた戸の陰に、いた。 「——はい」  耕太はうなずく。  完全な寝不足で、眼《め》をしょぼしょぼさせながら。  耕太は、となりのレラとおなじく、白い着物に袴《はかま》——つまり、人狼とおなじ格好をしていた。もっともまわりよりもかなり豪華で、白い木綿の生地には複雑な模様が描かれ、襟元や袖《そで》、裾《すそ》など、着物の端の部分には、毛皮の飾りも縫いつけられてあった。  これは、花婿《はなむこ》姿である。  ちなみに、婚礼用に装飾される前の着物は、子供用の、しかも女の子用だったんだけど……まあ、ウェディング・ドレスを着させられるよりは、まだ、いいか? 「では」  レラが、歩きだす。  耕太も続き、ふたりでみなの待つ広間へと姿をあらわすと、会場のざわめきは一瞬、止《や》み、続けて大きな歓声があがった。 「わー、ニンゲンのおにいちゃーん!」 「またオイシイのちょーだーい!」  人狼《じんろう》たちでひしめくなか、昨日、耕太がお菓子をあげた男の子や女の子が、ぶんぶんと手を振るのが見えた。  耕太は微笑《ほほえ》みかけ……その唇を、噛《か》む。  振りきるように子供たちから視線を外し、レラの背を見た。彼女に従って広間の前方を横切り、昨日は望《のぞむ》が座っていた長《おさ》の座へと進む。壇上に置かれたふたつの座布団のひとつに、腰をおろした。  耕太は正座の姿勢をとりかけ、まわりの人狼たちにならい、あぐらをかく。  新郎入場のつぎは——新婦、入場。 「姫さまー!」 「姫ー!」  新婦は、耕太たちがでてきたのとは反対側にある戸から、あらわれた。  姫さまの名を呼ぶ人狼たちの声は、マキリに続けて白ずくめの望が姿を見せたとたん、叫びへと変わった。  まさに、おたけびであった。  人狼たちが、望に向かって拳《こぶし》を振りあげ、叫ぶ。なかには感極まったのか、泣くお年寄りすらいた。それをなぐさめる若い人狼の眼《め》にも、また涙が浮かぶ。きっとこれは、姫さまの結婚式を祝う思いだけじゃないだろう。新たな長が誕生するうれしさ、それがあるからこそ、これほどまでに歓喜は爆発しているのだ。  耕太の胸は、痛んだ。  なぜ痛むのか、あえて考えずに耕太は望へと視線を向ける。だって、痛みの理由は、もうとっくにわかっていたから……。  望はその頭に、まるでべールのように白い布をかぶっていた。  さらに下を向きながら歩いているので、まったく表情はわからない。着ている着物は、耕太のものとは違って、無垢。なんの模様も飾りもされていない、白いものだった。帯まで白い。  マキリに連れられ、望はしずしずと耕太のとなりにやってきた。  横の座布団に、腰をおろす。望はあぐらではなく、いわゆる女の子座りだった。花嫁を先導したマキリは、望の脇《わき》にそのまま立つ。耕太を先導したレラも、おなじく耕太の脇に立っていた。  いまだ人狼たちのおたけびが続くなか、マキリが片手をあげる。  とたんに、広間はしん……と静まりかえった。 「これより、婚礼の儀をおこなう」  窓の外から、ちちち……と鳥のさえずりが聞こえるくらいに静かになった広間で、おごそかに式は開始された。  お年寄りが前に進みでて、先祖への礼をうにゃむにゃと語りだす。終わるとまたべつのお年寄りがでて、その人狼《じんろう》はふさふさな髭《ひげ》を生やしているものだから、てっきりおじいちやんかと思ったらじつは巫女《みこ》で自然への礼を語るものだから、つまりおばあちゃん? と耕太が驚きつつ、式は進む。みな、人狼独特の言語で話してはいたが、レラがきちんと訳してくれた。  そして、とうとう。 「では、姫さま……」  マキリにうながされ、望《のぞむ》が頭からかぶっていた白い布は、とりはらわれた。  しゅるりと落ちる、布。  あらわとなるも、なおも望は顔を伏せ、はっきりとはその姿を見せてはくれなかったが——すっ、と耕太のほうを、向く。 「あ……」  美しかった。  いや、元々、望の顔かたちは整っていた。眼《め》はぱちりとしているし、まつ毛も長く、銀髪や銀色の瞳《ひとみ》、青白く感じられるほどの白い肌もあって、まるでお人形さんのよう。だけど、いままではどちらかというと「美しい」よりは「かわいく」て……。  なのに、いまはとても美しく、そして綺麗《きれい》。  化粧だった。  うっすらとではあるが、望には化粧がほどこしてあった。頬《ほお》に薄く、きらめく粉。唇にはやはり薄く紅。目元にもかすかにふちどりの線が引いてあるようだ。ぱさついていた髪にはきちんと櫛《くし》を通したのか、まとまり、艶《つや》やかに輝いていた。 「小山田さま……ニンゲンの好みに、あわせてみたのですが……」  レラが、小声でいった。  しかし耕太に、返事をする余裕なんてあるわきゃない。  と、望が、首を小さく傾《かし》げてきた。 「耕太……わたし、どう?」  なんて、しとやかにうかがってくる。  耕太は……ああ、なんだかもう、なんだかモー! ぐびりと喉《のど》を鳴らし、ひっくとしゃっくりをしたら、なにかがヘンなところに入った。ふもも!? と咳《せ》きこんでしまう。 「こ、耕太?」  耕太は背を丸め、激しく咳きこんだ。  その背を、望がやさしく撫《な》でてくる。すりすり、すりすりと。 「……です」 「ん?」  耕太は、背を丸めたまま、顔をあげた。 「すごく……美しいです。望さん、綺麗です」  望《のぞむ》と、間近で見あう。  薄紅を刷《は》いた唇を、望はやわらかく曲げた。 「……ん」  と、微笑《ほほえ》む。 「本当に綺麗《きれい》で……ぼくの決意が、ちょっぴり揺らいじゃったくらい……」 「んん?」  望のまぶたが、ぱちぱちと上下した。 「もう望さん、わかってますよね?」  耕太は、見つめた。  ちょっと手を伸ばせば、その頬《ほお》に触れることだってできるほどの距離で、望の銀色の瞳《ひとみ》を、薄紅に染まった唇を、そしてこれだけは前と印象の変わらない、小ぶりなかわいい鼻を見つめ……望もまた、耕太を見つめていた。  ふたり、見つめあい。  やがて、ん、といつものようにうなずいたのは、望だった。 「まあね」  望は笑う。 「だって耕太のイチバンは……ね?」  耕太はうなだれた。 「ぼく……すごく自分勝手だって、わかってるんだけど……エゴだって、わかってるんだけど……だけど、どうしても」 「——なにがいいたいんだ、小山田耕太」  マキリだった。  この能面のような顔をした人狼《じんろう》は、あのガラス玉のような生き物とも思えない瞳で、耕太を見おろしていた。  耕太は身体を起こす。  しっかりとマキリの視線を見つめ返し、いった。 「ぼくは、望さんと結婚は、しません」  ぴく、とかすかにマキリの目元が、動く。  異常を察し、ざわめきながら見守っていた人狼たちが、瞬間、黙る。  弾《はじ》けた。 「ニンゲン、ふざけるな!」 「姫さまに恥をかかせるのか!」 「やはりニンゲン、我らの敵!」 「ニンゲン!」 「ニンゲン!」 「ニンゲン!」  うおおおお、と怒号のごとき叫びがあがる。  それはさっき、花嫁姿の望《のぞむ》があらわれたときの叫びと大きさだけは似ていたが、こめられた感情は似ても似つかない。まぎれもない、憎悪に満ちていた。  なぜだろう、耕太は怖くない。  あまりに危険な状態になると、恐怖を感じる部分が壊れてしまうのかな……そう考えていた耕太は、身を乗りだし、眼《め》を血走らせる人狼《じんろう》たちのなかに、ただただ眼をうるうるさせ、どうしたらいいのかわからないといった様子の子供たち——お菓子をあげた子供たち——の姿を見つけ、ちくん、と心を痛めた。  ごめんね、だけどぼくは……。  そのとき、強い足音が鳴った。  マキリだった。  彼の、床を踏み割るほどの激しい踏み鳴らしに、いまにも耕太に飛びかかる寸前だった人狼たちが、いっせいに静まる。 「……答えてもらおうか、小山田耕太。姫さまと結婚しないとは、どういう意味か」  マキリの表情自体に、怒りはない。  なのに耕太は、すさまじいまでの怒りを、マキリから感じた。秘めた怒り……それは、まわりの人狼たちとはくらべようもなく激しく……さっきはちっとも怖さを覚えなかった耕太は、ぶる、と震えた。自然と走った震えだった。 「ぼくは……望さんとは……」  こーおーたーくーん!  聞き覚えのありすぎる声に、耕太は、はっ、と顔をあげる。  いまの声は——上から?  耕太が、太い木の梁が張られた天井を見あげた、その、瞬間。  屋根は消えた。  文字どおり、消失したのだ。  消え去り、あらわれたのは、ぬけるような秋晴れの空と、そして、何本もの黒いしっぽを、放射状にまわりに伸ばし、広げた、金髪の女性だった。  しっぽの数は、七本。  よく見ると、一本だけは金毛のままだった。それらしっぽを従えた彼女は、私立|薫風《くんぷう》高校の制服に、そのゴージャス・ちずりんなナイスすぎるバディを——っていうか! 「ちずるさんっ!」  耕太が叫ぶと、ちずるはゆるゆると降りてきた。  天井と屋根とを瞬時に消失せしめたちずるを前に、さしもの人狼たちも呑《の》まれたか、ただ黙って見守るばかりだ。  ちずるは耕太の前に、かすかに足元を浮かせた状態で立つ。  ぱっ、と敬礼するかのように片手をあげ、ウィンクをした。 「ごめんねー、耕太くん。ちょっと遅れちゃって……待った?」  まるでデートの待ちあわせに遅れたかのような、のんきな声だった。  が、いままでのちずるの行動が決してそんなのんきなものではなかったのは、その姿を見ればわかる。艶《つや》やかだった金髪はばさばさ、頬《ほお》や鼻の頭には泥や傷、制服はぼろぼろになっていたのだから。  耕太は自分の唇を、痛いほど噛《か》みしめた。 「ぼくも……いま、きたところです」  ふふ、とちずるは微笑《ほほえ》み——きゃは、と声をあげ、耕太を抱きしめてくる。 「ああ……よかった! やっと、やっとやっとやっと、耕太くん、見つけた!」  ひさしぶりの……たった一日ぶりのはずなんだけど……ちずるのぱいぱいぷーだった。しかし、耕太はちっともえっちな気分にならない。自分からも、抱きしめ返す。 「ち、ちずるさん……」  うれしいはずなのに、耕太は泣けてくる。微笑みながら、ぐす、と鼻をすすった。 「なぜ……あなたはここがわかったの?」  そう尋ねてきたのは、レラだった。  人狼《じんろう》一族の巫女《みこ》とマキリは、さきほどまで耕太が座っていた新郎新婦の座から、いつのまにか望《のぞむ》を連れだしたようだった。ふたりならび、望をかばうようにその前へと立つ。おかげで耕太には、望がいまどんな表情をしているのか、まったくうかがえなかった。 「ここには……我らの里には、結界が張ってある。代々の巫女によって張り続けられた、とても強い結界が……なのに、なぜ?」 「あー、まー、たしかにねー」  ちずるは、耕太を抱きしめたまま、答えた。 「かなりレベルの高い結界だった。侵入を防ぐ強度もなかなかのものだったけど、すごいのはその不感知性よね。結界を張ってあることすら感じさせないという……だっていまの七本しっぽ状態のわたしですら、わかんなかったし」 「だったら……」 「んー、なんていうの? 蛇の道は蛇ってやつ?」 「なに? 蛇?」 「そんなことより……望!」  ちずるは、とまどうレラに向かって——いや、その後ろに守られて立つ望に向かって、人さし指をびしっ、と伸ばした。 「なんかどーもいまいち事情はよく呑《の》みこめないんだけど……どうしても見すごせないのは、耕太くんとおまえが、なぜか結婚式のまねごとなんかやってるってことだ! ぐぬぬ、恋人であるこのわたしをさしおいて……これはどーゆーことよ、望、こらー!」 「いや、あの、ちずるさん、これはですね」 「う〜、とにかく、望《のぞむ》!」  説明しようとする耕太を退け、ちずるはいった。 「……とっとと戻ってきなさいよ、バカオオカミ。耕太くん、あなたがいないあいだ、すっごく淋《さび》しそうだったんだから。この幸せもの」 「ち、ちずるさん……」 「——姫さまが戻ることはない」  耕太が見あげ、ちずるがウィンクしたそのとき、マキリの声が邪魔をした。  ちずるは、レラとならんで望の前に立つマキリを、不機嫌さ丸だしにべたっと細めた眼《め》で、見つめる。 「なによ、あいかわらず怒ってんだかなんだかわかんないような顔して、このロボット男。べつにあなたにはいってないんですけど?」 「姫さまは、我らが一族を捨てた父親に成りかわり、長《おさ》となられるおかた。ゆえに、おまえたちの元には戻らない」  マキリは、やはり無表情のまま、答えた。 「はあ? 一族を捨てた父親? 長になる? なにがなんだか……おーい、望。黙ってないで答えなさいよ。あなたはどうするの? 明るく楽しくちょっぴりえっちなわたしたちのところに戻るの? それともこの辛気くさーいやつらのボスオオカミになるの?」  望は、答えない。  マキリとレラの後ろにうなだれて立ったまま、微動だにしなかった。 「ふん……」  おもしろくなさそうに、ちずるが鼻で笑った。 「ああ、もう、わーかった! じゃーね、このバカイヌ! ああ、耕太くんって、本当にいいものですね……サヨナラ、サヨナラ、サヨナラーっだ!」 「ふえ? ち、ちずっ……」  耕太を抱きしめたまま、ちずるは飛んだ。  すっかり開けっぴろげとなった天井をぬけ——と思ったら、もうすでに結婚式の会場は眼下はるか遠くにあった。  ちずるはさらに飛び続け、耕太の耳を風切り音で包みこむ。  人狼《じんろう》の里が、みるみる遠ざかっていった。      ★ 「……と、いうわけだったんです」  耕太はちずるに語り終えた。  今回の望の件について、耕太が知っていることのぜんぶをだ。  人狼《じんろう》の一族のこと、望《のぞむ》の父親のこと、どうして望と耕太が結婚しなくてはならなかったのか、その理由。そして、望が告白した、ひそかな企《たくら》み……なぜ耕太たちの前からいなくなったふりなんかしたのかまで、すべてを耕太はちずるに説明した。 「ふーん……」  ちずるは腕組みしながら、立ったまま耕太の話を聞いていた。  その髪は金髪で、腰からは七本しっぽを生やしたままだ。足元を見れば、靴下のあたりまで、すっかり牧草に埋まっている。というのも、耕太たちはどこかの牧場の隅、木の陰に潜んでいたからだ。遠く、牛がモー、と鳴く。 「なるほどね……バカ親の代わりに、あのダメダメ一族の世話をしなくちゃならないわけだ。それはたしかに、耕太くんと結婚でもしなきゃやってられないか」 「え? だ、ダメダメ一族? どうしてですか?」 「それは……」  と、ちずるが、はっ、と眼《め》を見開く。  その大きなふくらみの前で組んでいた腕もほどいたものだから、てっきり人狼《じんろう》たちが追いかけてきたのかと耕太がまわりを見やると——。 「あ、電話だ」  いいながら、ちずるが耕太を捜し続けたためにぼろぼろとなったブレザーの前をとめていたボタンを、外しだす。 「ちずるさん……また、そこにしまってたんですか?」  ブラウスのボタンも外したちずるを、耕太はじとーっと見つめた。 「だって、ここがいちばん安全なんだもん。戦闘になるかと思ってたし……あ、蛇だ」  ちずるは、白いぶらじゃーに包まれた夕張メロンクラスおっぱーの深い谷間から、挟みこんでいた携帯電話をとりだし、着信画面を見て、いった。 「へ、蛇?」 「そ、蛇。あ、そーだ。耕太くん、どうして今回さ、人狼の里の場所が、わかったと思う? あのね、ひとり、昔ね、北海道で神さまなんてやってたやつがいたことに気づいて……そいつに聞いたってわけ! まさに蛇の道は蛇よねー。いや、熊《くま》の道は熊か?」 「ほ、北海道で神さま? 熊の道は熊……まさか」 「そのまさか。はい、耕太くん」  ちずるが、携帯電話を向けてくる。 『がーははは! そうだ、元キムンカムイだった、熊田《くまだ》流星《りゅうせい》……の知りあい、熊田|彗星《すいせい》だ! あいかわらずトラブルに巻きこまれておるようだ、小山田よ! がはは!』  熊田の大声を鼓膜にまともに喰らい、耕太は眼を白黒させた。 『パパー! 旅先でもー!』 『ママー! あいかわらず〈あまえんぼさん〉ですかー?』  続けて、蓮《れん》と藍《あい》の声が聞こえる。 『この〈あまえんぼさん〉バカ! おまえのせいで、おれまで〈あまんぼさん〉バカになったぞ! これ、どうしたら止められる!? なんかもう、止まらない!』 『き、桐山《きりやま》くん、そ、そそ、そんな恥ずかしいこと、いっちゃ!』  桐山と澪《みお》の声も聞こえ、そうこうしているうちに、通話は切れた。 「……えーと」  なにがなにやら、だった。〈あまえんぼさん〉という単語が聞こえたような……それも、あの桐山番長から……んー? 耕太は首をひねる。 「さて……と、じゃあ、耕太くん。いこっか?」  ちずるの声に耕太が視線を向けると——。  おっぱー♪  なぜかちずるはぶらじゃーを外し、その北海道は当麻町でんすけスイカクラスのふくらみを、前の開いたブレザーにブラウスを押しのけて、あらわにしていた。 「ち、ちず……ええ?」 「なんていうかさ、わかっちゃうんだよね、耕太くんがいま考えていること。わかっちゃった自分が、ちょっぴりイヤではあるんだけど……。と、いうことで、耕太くんもいまわたしがやろうとしていること、もうわかるよね?」 「わか……ります」  耕太は答え、そして「ごめんなさい」と頭をさげかけ——止められた。 「あやまる必要はないよ、耕太くん。そのためにこれ、いまからするんだから」  と、揺らしあげる。どうん、でうん。 「あ、あの……ところで、今回はどういったやつで?」 「ん? ほら、野球でさ、一本足打法ってあるじゃない? それと、振り子打法? そのふたつを組みあわせた、夢の打法……もとい、打ちかた! じゃあいくよ、耕太くん! 必! 殺! 一本足振り子のーぶらぼいん打ちーっ!」  Zugyaaaaaaa!! 「ごへー! 世界のOhー!」      ★  散乱した、料理。  一様にうなだれる、人狼《じんろう》たち。  涙目になる、子供。  そしてなくなった、屋根。  花婿《はなむこ》に去られてしまった結婚式会場は、さながらお通夜のようだった。 「みな、顔をあげろ」  マキリがいった。 「考えようによっては、これでよかった。ニンゲンを、長《おさ》の夫として迎えずともすんだのだから」 「だが、マキリ……」 「たしかにつぎの成人の儀は、春だ。それまで待たねばならない。だが……」  マキリは、斜め下を向く。  視線の先では、望《のぞむ》が、料理として用意されていた豚の丸焼きを抱え、ひとりでかぶりついていた。はむはむと、花嫁衣装が汚れるのも構わないでいる。 「見ろ。姫さまも悲しんではおられん」  一同、望をじっと見つめる。  子供のひとり、女の子が、とてとてと近づき、尋ねた。 「ねーねー、姫さまー」 「ふもっ?」  頬《ほお》をむぐむぐと動かしながら、望は子供を見る。 「姫さまは……かなしくないの? ニンゲン、いなくなっちゃったよ?」  望は抱えていた豚の丸焼きを置き、口のなかのものをごくりと呑《の》みこんだ。けぷ、と小さくげっぷする。 「べつに、平気だよ?」 「ど、どーしてー? どーしてへいきなのー?」 「それはね……」 「——望さん!」  空からの声に、人狼《じんろう》たちはびくつく。  いっせいに見あげた。  空には、ちずるにお姫さま抱っこされた、耕太がいた。  望は、豚の脂で汚れた口元で、にこりと笑う。 「ほら、戻ってきた」  その言葉に、真横で眼《め》を丸くし、口も丸くしていた子供が、弾《はじ》けたように望を見た。 「で、でも、どーして? どーしてわかってたの?」 「それは……」  んー、と望は首をひねる。 「……愛?」 「あ、あい?」 「そう、愛」  話しあう望と子供に、影がかかった。  ふたりが見上げると——。  マキリだった。マキリが、望《のぞむ》の前に立っていた。 「……なにをしに戻ってきたのだ、小山田耕太よ」  あのガラスのような眼《め》で見あげ、尋ねてくる。 「——答えが、でたんでしょ」  マキリの横から、望が口を袖《そで》でふきふきしながら、あらわれた。 「姫さま……」  マキリの視線が、耕太から自分の横にならんだ望へと、向く。 「『耕太はわたしにとって、なに?』の答え。ね? 耕太」  望が首を小さく傾けながら尋ね、マキリもあらためて耕太を見あげた。 「ぼく……考えました」  耕太は望とマキリの視線を受けながら、答えた。ちずるさん、と自分を抱きかかえ、宙を飛ぶちずるにお願いする。ちずるはうなずき、ゆっくりと屋敷内へ降りていった。 「こんどは真剣に、考えました。あの日……望さんがほくにさよならを告げた日から、ずつと、ずっと。だけど、やっぱりはっきりとした答えはでませんでした。ぼく、望さんのこと、好きです。たぶん……ですけど、愛してもいます。だけど、それは、ちずるさんよりも、ではない」  とん、とちずるは人狼《じんろう》たちのあいだ、四散した料理で汚れる広間の真ん中に、いちおう料理を避けるようにして、降りたった。  はい、と耕太を降ろす。  耕太は、おっとっと、とバランスを崩しかけながらも、立った。  望を見つめる。 「ぼく——やっぱり、いちばん好きなのは、ちずるさんなんです」  うん、と望はうなずく。 「で?」 「だけど、ぼく……望さんがほかの男のひとと結婚することを考えると、嫌なんです。すごく自分勝手で、ひどいことをいってるとは思うんだけど、でもそうなんです」 「うん……で?」 「だから、ぼくは……」  耕太は深く息を吐き、吸った。 「望さんに、戻ってきてほしい。ぼくのアイジンとして……そばにいてほしい!」  人狼たちがどよめく。  牙《きば》を剥《む》き、眼をさかだて、いっせいに飛びかかろうと、足を踏みだした。 「ニンゲン、我らから長《おさ》を奪うつもりか!」 「許せん!」 「待て——」  低い声に、止まる。  声を発したのは、マキリだった。 「姫さまとこやつの会話は、まだ終わっていない。勝手は……許さんぞ」  耕太は、見た。  マキリの、あのガラス玉だったような眼《め》に、たしかな感情が浮かんでいるのを。  それは——怒り。熱いほどの、怒り。 「姫さま……続きを、どうぞ」  ん、ありがと、と望《のぞむ》はうなずく。 「耕太は、つまり、わたしにそばにいてほしいって、いうの?」 「うん。離れないでほしい」  耕太はしっかりとうなずいた。 「で、ちずるは? それでいいの?」  望の視線が、ちずるを向く。  ちずるは、耕太の横で、ぶすっ、と頬《ほお》をふくらましていた。  望と、見あう。  しばらく、どきどきする耕太をよそに、ふたり黙って見あっていたが……。 「あなた、わたしの返事はもう、わかっているんでしょう?」  ぶすっとしたまま、ちずるがいった。 「まーね」 「それでも訊《き》くわけ?」 「まーね」  ふっ……。  ちずるが、鼻からぬけるような声で、笑った。 「じゃあ、さっさと戻ってきなさい、望! あなたは耕太くんのアイジンなんだから、こんな自前で長《おさ》のひとつも用意できないようなダメダメ一族の世話なんか、している暇なんかないのよ! アイジンであるあなたの仕事は、耕太くんのお世話だけ! わかった!」  びし、と指先を望に突きつけ……ふふん、と笑った。  望も、にっこりと笑う。  ふふ、ふふふ……と、互いに笑いあった。 「——姫さまは、どうなさるおつもりですか」  尋ねてきたのはマキリだ。  まわりの人狼《じんろう》から、声があがる。 「マキリ!」 「なにをいうのだ!」 「姫さま……お答えを」  無視して、再度尋ねた。その眼ときたら、ただでさえ鋭い眼が、さらに鋭くなり……べつに見つめられているわけでもない耕太ですら、息が詰まるものだった。 「帰る」  望《のぞむ》は平然と答えた。人狼《じんろう》たちから、耕太が望を求めたときとは違う、悲しみに彩られた声があがる。振りしぼるような、声……。 「ひ、姫さま、いっちゃうの? 前の長《おさ》さまのときのように、わたしたちを捨てて、いっちゃうの?」  子供が、望に尋ねていた。  望は、子供の頭をわしゃわしゃと撫《な》でながら、微笑《ほほえ》みかける。 「だってわたしは、耕太のアイジンだから」  ぴょーん、と飛ぶ。  耕太とちずるの元に、帰ってきた。  ちずるは拳《こぶし》の甲で、こつんと望の頭を叩《たた》く。望は、ヘヘー、と舌をだした。 「姫さま!」 「姫さまー!」  人狼たちの哀切な叫びが、どんどん声を増す。  ちずるが、ささやいてきた。 「どうする? とりあえず逃げる?」 「えっと……」  そこに望が口を開こうとした、瞬間。  笑い声があがった。  広々と広がる空へと吸いこまれる、じつに高らかな笑いだった。  みなの視線が、一点に集まる。  笑い声の主——マキリへと。  ふふ、ふふふ……と、マキリは肩を震わせて笑っていた。 「もう、いいだろう」 「マキリ……」  レラが、マキリに向かって手を伸ばし、しかし触れえず、中途半端なまま、胸の前でぎゅっと握り拳を作った。 「終わりにしよう。そもそもが儚《はか》い夢だったのだ……長年、長を追い求め……全国を捜しまわり……しかしどこにも手がかりはなかった。とてつもなく強い人狼がいるとの噂《うわさ》に、会いにいったこともある。犹守《えぞもり》朔《さく》。たしかに強い人狼だった。長、ホルケゥの旧友ではあったが、なにも教えてはもらえなかった。ただ、長はメスの妖犬《ようけん》のあとを追い、外国へと向かったとだけ……」 「朔のやつ、望のオヤジと知りあいだったわけ?」  ぜんぜん知らなかった……とちずるが小声で呟《つぶや》く。 「すべてを諦《あきら》めかけたそのとき、姫さまの手がかりをつかんだ。相手は、〈葛《くず》の葉《は》〉と名乗るヒトの組織。はぐれものの我らでも知っているような大きな組織だ。その……鵺《ぬえ》といったか、妖《あやかし》の気配のするものが、我らの前にあらわれ、紙を渡した。薫風《くんぷう》高校という学校の、資料だった。犹守《えぞもり》望《のぞむ》という生徒の、資料……」 「鵺《ぬえ》!?…」  耕太もちずるも、声をあげる。 「こ、耕太くん、鵺って……」 「はい……」  耕太はうなずく。  鵺。耕太の妹を自称する少女、三珠《みたま》美乃里《みのり》と行動をともにしていた妖怪《ようかい》の名だ。美乃里は鵺に憑依《ひょうい》されることで、ちずるに憑依された耕太が妖狐《ようこ》となるのとおなじく、妖怪へと変化《へんげ》した。姿は大人に、性別は男となって、底知れぬ力を見せた……。 「おそらくは罠《わな》だろう。だが、どうでもよかった。それ以外に手がかりはなかったのだから。我らはその資料に従い、姫さまと出会うことができた。ようやく……ようやく、見つけだすことができたのだ。あとはホルケゥの血を継ぐ姫さまに、新たに長《おさ》となってもらいさえすれば、すべて……すべてうまくいったのに……」  ははは、とマキリは笑う。 「わかっていたんだ。ホルケゥが我らを捨てたときに、みんなわかっていたんだ。ただそれを、認めるのが怖かった……もはや我らは、生きてはゆけぬのだということを。時代か……ヒトの世に溶けこみ、生きてゆくことができぬ弱き我らは、もはや滅びるほか、ないのだ。それを認めることが、できなかった……」  うなだれた。 「——ゆけ」  耕太たちを見つめる。 「姫さま……いや、ヒトの名で、犹守望さま、とお呼びいたしましょう。どうぞ、お帰りください。ヒトの世で、そのすこしおかしなニンゲンと、生きてください」 「だ、だれがすこしおかしなニンゲンよ!」  ちずるが、耕太をがしっとその胸に抱きしめた。  ふっ……マキリは笑う。 「〈龍《りゅう》〉よ。なんなら、その力で我らを滅ぼしていってくれてもかまわんのだぞ。どうせ我らに未来はない。ヒトから隠れ住み……貧しい土地を耕し生きてゆくには、強い長の存在がなくてはならない。いつか長を捜しだすとの思いのもと、なんとか頑張ってはきたが……もはや、その長もない。すべては終わった。終わったのだ……」  マキリは、空を見あげた。  まわりの人狼《じんろう》たちもうなだれ、子供たちは声をあげて泣く。レラも、マキリのそば、黙ってうつむいていた。 「あのねえ、あなたたち……」  ちずるはむっとした声をあげた。  その眼前に、望《のぞむ》が横から腕を伸ばす。 「ん? なによ、望。ほら、あなたもいちおう姫さまなんでしょう? なにかひとことぐらい、このヘタレどもに……」 「ちずる……」  じっ、とちずるを見つめた。 「力、借りていい?」 「え? ……ああ、なるほど。うーん、まあ、しかたないか」  ちずると望が、耕太を見つめる。 「え?」 「いくよ、耕太くん!」  返事する前に、その口をちずるにふさがれた。  ふもも? まばたきしているあいだに、ちずるの姿は消える。ぼろぼろの制服と靴下、靴だけを残して、金髪と狐《きつね》の耳、七本のしっぽが霞《かすみ》のように消えてなくなった。 「いっくよー」  続けて、望までもが、んちゅー、と。  耕太に口づけするなり、その姿を消す。  料理で汚れた花嫁衣装を残して、銀髪が、狼《おおかみ》の耳が、しっぽがなくなった。  人狼《じんろう》たちが驚きの声をあげる。  耕太も驚き、花嫁衣装を抱えながら、声をあげた。 「こ、これは……?」  憑依《ひょうい》合体である。  それはわかる。だがしかし、ふたりどうじに……? これは、なに? 三人どうじプレイ?  と、衝撃がきた。  憑依合体のときには、身体が変化するためだろうか、なかで力がふくれあがる感覚がある。が、やはり三人どうじプレイ、いつもとひと味違っていた。いつもは「どどん」なのに、今回は「どどど?」というか。衝撃の波が安定していないというか。 「——くっ」  耕太は片目をかたく閉じ、自分の身体を抱きしめた。  そう、いつもはふくれあがった力が、頭頂部、尾てい骨のあたりから噴きだすような感覚があって、そこから狐の耳、しっぽが生え……と、その感覚が、きた。  まずは頭頂部から。続けて、尾てい骨のあたりから。  人狼たちが、また驚きの声をあげる。こんどはかなりはげしく。  も、もしかして……。 「あの……」  耕太は、レラに尋ねた。 「は、はい?」 「あの、鏡、ありますか?」  こくこくとレラはうなずき、ふところから手鏡をとりだす。  覗《のぞ》きこんでみると——離れた場所ではあったが、妖化したためか、視力がかなり増していたため、きちんと像は見えた——なんと頭から生えていたのは、狐《きつね》の耳ではなかった。  狼《おおかみ》の耳、だった。  銀毛の耳だ。腰からしっぽ、頬《ほお》からは三本髭《さんぼんひげ》が。耕太の髪自体は黒髪のままなので、狼の耳はなんだか、いつもにも増してただのコスプレにしか見えなかった。 「「マキリー!」」  と、耕太の身体が、勝手に動いた。  マキリを指さす。  眼《め》を丸くしたマキリに向かって、こんどは口が勝手に動く。 「「父さまは、おまえたちのこと、捨ててないぞー」」  その声は、耕太の声ともうひとつ、望《のぞむ》の声が重なっていた。 「ひ……姫さま?」 「「父さまは、あなたたちのことを思うからこそ、姿を消したんだぞー。だってあなたたちは、父さまがいたら変われないでしょ。強い父さまに、頼ってしまうでしょ。子は、いずれ親の元から巣立たねばならない。親は、守ってくれるし、エサもくれるし、とても楽だけど、だからこそ、そのままじゃ強くなれない。だれも守ってくれなくならなきゃ、変われない……オトナになれない。だからわたしも、ここにいちゃ、長《おさ》になっちゃ、ダメなのだ」」  ぐるりとまわりを見渡す。 「「ヒトの世界で生きてゆくのも、この山奥でひっそりと生きてゆくのも、どっちもタイヘン。どっちも荒野。だから、捨てるんじゃないのだ。逃げだすんじゃないのだ。おなじ荒野で、闘って生きてゆくのだ! 誇りを胸に、オオカミは荒野に旅立つのだ!」」  見つめられた人狼《じんろう》たちが、いっせいにひざまつく。 「で、ですが、我らは……」 「「どーん!」」  いいかけたマキリに、望は指先を突きつける。離れた場所ながら、マキリは黙った。 「「父さまから聞いたこと、ぜんぶ喋《しゃべ》る」」 「あ……」  マキリは口ごもる。  その顔はただでさえ白い肌なのがさらに白く、視線は自信なくさまよっていた。 (望さん?)  耕太は、自分にとり憑《つ》き、いま身体を自由にしている望に尋ねた。 (望さんは……お父さんのこと、知ってたんですか?) (兄さまから、聞いた) (兄さま……朔《さく》さんからですか? でも) (前、電話がきたの。そろそろ、人狼《じんろう》の一族が会いにくるかもしれないって。だから父さまのこと、教えておくって。けっこーびっくりしたけど……) 「……あなたのお父上は」  マキリが語りだす。 「あなたのお父上は、この里からでてゆく前、こんなことをいっていました……『妖《あやかし》は、もはや人に交じって生きていかなくてはならない』と……。もはやこの世界に闇《やみ》はないと。妖が潜める闇は、どこにも……しかし、我らは変わろうとはしなかった。いや、できなかった……だからこそ、あのかたはでていったのでしょう。自分がいれば、腐ってしまうと……だが!」  かっ、と顔がゆがむ。もはやあのロボットじみた無感情さは、どこにもなかった。 「変われぬものは、どうすればよいのか! 変わるには強さがいる。いままでのおのれを殺す強さが! だが、みながみな、姫さま、あなたや、あなたのお父上のように強くはないのだ!」 「マキリ……」  レラが駆けより、マキリの腕に、こんどはしっかりと触れた。  マキリが、レラの手に自分の手を重ねる。 「我らは弱い。弱き我らには、強き長《おさ》が必要なのだ……」 「「ばかちーん!」」  望《のぞむ》(半分耕太)の声に、マキリもレラもびくつく。 「「変わるもー、変わらぬもー、本人次第ー! 変わりたくなければ変わらなければいいー! 変わるも闘い、変わらぬも闘い、おのれのなかの決まりに従い、おのれの信念によって生きるべし……それこそが我ら、人狼《じんろう》!」」  耕太は足をがにまたに開き、片腕を引いてもう片腕を伸ばしたポーズを決めさせられた。  わー……と、いきおいに呑《の》まれたように拍手する子供たち。 「し、しかし」 「一列に整列!」」 「は?」 「「一列に整列!」」  望の指示に、人狼たちは顔を見あわせ、すぐさま行動した。  ずらりとならぶ人狼たち。  人数が人数のため、長く伸び、列の途中から広間の外へとでてしまっていた。先頭に立つマキリに向かい、望は——耕太の身体は、くきくきと首を鳴らす。 「「ゲンキですかー!」」 「は……」  マキリの返事を待たず、すぱーん、とビンタ一閃《いっせん》。 「「キアイだー!」」  望は、つぎつぎに頬《ほお》を張っていった。  老若男女、差別することなくビンタしてゆき……いちおう、か弱いものたちには「ぺちん」と手加減してはいたが、全員ぶん、やりとげた。 「「わかったかー!」」 「い、いや、しかし」  頬を押さえたまま、マキリがいった。 「「ん? キアイ、まだ足りない?」」 「それでも……だれかが群れは率いてゆかねばなりません。我らは狼《おおかみ》なのです。狼は本来、群れるもの……群れは長なしには成りたちません!」 「「だったら、あなたやったら?」」  そういったのは、望ではなく、ちずるの声だった。  すぽん、とまず望が耕太の身体から離れる。  まるで押しだされたかのような望のつぎには、ぬろん、とちずるがでてきた。どちらも獣の耳、しっぽを生やしたままで、裸だった。望は細身で、ちずるは豊かで。 「わ、わたしがやれとは、どういう意味なのだ、〈龍《りゅう》〉よ?」  ふたりの女性が裸だというのに、べつに気にしたこともなく、マキリが尋ねた。まわりの人狼《じんろう》も、さほど反応は見せない。人狼の一族はあまり裸に抵抗がないのかもしれない。 「だから、あなた……ええと、マキリとかいったっけ? あなたがやりなさいよ、長《おさ》」 「な……」 「おお、それはいい考えだの」  絶句したマキリに、人狼たちのなかでもお年寄りが声をかけた。 「そうだな。マキリが長なら、文句はない」 「わたしは前から、そうなるべきだと思っていた」 「うむ。ずっとマキリは一族のことを考え続けてきたからな」  人狼たちはうんうんとうなずく。 「な、なにを……だめだ! わたしは弱い。おそらくは姫さまにも勝てぬ……いや、そういった強さだけではない。姫さまのおっしゃったとおり、変わろうとする強さが、わたしにはない。ないのだ」 「いいえ。マキリ、あなたは強い」  レラがいう。 「あなたはずっと、里のものたちを守るため、頑張ってきたじゃない……あなたがどれだけおのれの身を削ったか、わたしは知っている。おのれの感情を消してまで……」 「レラ……」 「そして、おぬしもな、レラ」  老人の言葉に、「え?」とレラは声をあげる。 「いえ、わたしは巫女《みこ》……里のために身をつくすのは、当たり前のこと」 「当たり前のことなぞあるかい。里すべてを包むほどの結界、決して楽ではあるまい。感謝しておるよ、我々みな、な……」  人狼たちは、みな頭をさげる。きょろきょろしていた子供たちも、それにならった。 「みんな……」 「まあ、その頑張り、我らのためだけでもなかろうが、な」  ひとり、異を唱えるものがいた。 「ん? ああ……そうか、そうであったな」  笑いだす人狼たち。  その笑い声に、レラは真っ赤になった。マキリは咳《せ》きこむ。なにがなんだかわからず、子供たちはきょろきょろした。そして、耕太もおなじくきょろきょろする。 「え……っと?」 「耕太くんも、いいかげん鈍いよねー」 「ええ? ちずるさん、わかるんですか?」 「わかるもなにも……」 「——だが、やはり無理だ」  マキリがうなだれる。 「あなたねえ……男だったらビシッとしなさいよ」  ちずるはあきれたようにいった。 「そうはいうが……一族のことなのだぞ? そう簡単には決められぬ。変わらぬままでいるのも、姫さまのいうとおり、闘いだ。強きものが、率いねば……ヒトの組織に他の妖《あやかし》たち、いまだ我らをおびやかすものは、多いのだ」 「ふん……」 「あの……ちずるさん」  耕太は、裸のちずるにぱんちゅを穿かせながら、尋ねた。 「ん? なーに、耕太くん」 「玉藻《たまも》さんにお願いすること、できないでしょうか」  その言葉に、片足をあげたまま、ぴこーん、とちずるの眼《め》は開く。 「あー、そうね。弱いんだったら、守ってもらえばいいわけね! うんうん、いいよ、耕太くん。あの大|妖怪《ようかい》に、頼んじゃいましょ。どーせ土地は売るほどあるわけだし……はは、白面金毛|九尾《きゅうび》の狐《きつね》の領域に入りこむ命知らずなんか、そういるわけないしね!」 「は、白面? 九尾の狐?」 「そうよー? じつはわたし、あの大暗黒魔獣と知りあいなの。〈龍《りゅう》〉のことは知っていても、そのことは知らなかった? あなたたち、狼《おおかみ》なんだからちょっとやそっと寒くても平気でしょ? 温泉旅館でたまに働かせられてもかまわないっていうんなら、紹介してあげてもよろしくてよ?」  ちずるは立てた人さし指をちょいちょいと動かす。  耕太はその後ろから、七本しっぽを避けながらブラウスを着せるのに苦戦していた。ぶらじゃーは、いまだすっぽんぽんなままの望《のぞむ》が頭にかぶって遊んでいたため、あきらめた。ばずごーん、と揺れるちずるのふくらみを、子供の人狼《じんろう》たちが指をくわえて見あげる。  マキリが、ふー、と長く息を吐く。 「……やれるだけ、やってみるか」  おー!  爆発的な歓声があがる。  人狼たちはみな手と手をとり、飛び跳ねた。 「じゃー、マキリとレラで、ケッコンだね」  あいかわらず全裸で、しかも頭にぶかぶかなぶらじゃーをかぶったまま、望はとんでもないことをいいだした。 「は? あ、あの、姫さま?」  とまどうマキリ。 「だって、長《おさ》になるにはケッコンしなくちゃいけないんでしょ?」 「い、いえ、それは、姫さまが大人になるため都合がよかったからでして……わたしはすでに大人ですから」 「ケッコンケッコン、豚の丸焼きー!」 「……あなた、豚の丸焼きが食べたいだけでしょ」  ちずるのつっこみに、望《のぞむ》は指をくわえ、ん? と首を傾《かし》げる。全裸で。 「姫さまの言葉だもの……従うほか、ないでしょう」  レラはマキリの手をとり、自分の胸元に抱いた。 「レラ……いいのか?」  ふふ、とレラは微笑《ほほえ》む。  さきほどよりも一段、大きな歓声があがった。 六、Wの喜劇      1  三珠《みたま》美乃里《みのり》。  かつて耕太《こうた》の妹を自称した少女は、いま、暗黒の闇《やみ》のなかにいた。  ひどく、あたりは生臭い。  それは血の臭《にお》いだった。  血に弱いものならば、たまらずその場で吐きだしてしまうほどに、濃厚な血の臭い。しかし美乃里は、微動だにしなかった。  ただひたすら、闇のなか、少女は動かない。  と、音がした。  軽い金属音、きしみ、そして——青白い光が差しこむ。  美乃里のいる闇に、金属製の扉を開けてあらわれた男。  それは、あの三珠家当主代理、三珠|四岐《しき》だった。  七三わけの髪型に、ダークブラウンのスーツを着て、にこやかな笑みを貼《は》りつけた四岐。彼は、照明なのだろうか、手のひらに青白く輝く光球を浮かべていた。  後ろ手に扉を閉め、四岐《しき》はその手のひらの輝きで、美乃里《みのり》を照らしだす。 「なあに、四岐さま……?」  美乃里は、うなだれたまま答えた。  四岐が、ふむ、と呟《つぶや》く。 「ここにはひさしぶりにきたが……ひどくやられたものだな」  四岐が作りあげた光球の、冴《さ》え冴《ざ》えとした青い光によって、浮かびあがったもの——。  それは、傷だらけの美乃里の肉体だった。  黒ずんだ液体やら染みやらがこびりつく、石畳の床。  その汚れた床に膝《ひざ》をつく、痩《や》せきった美乃里の幼い身体には、なにもまとうものがなかった。なにも身につけず、膝立ちのまま、すっかりすべてをさらけだしていた。  ひどい傷だった。  傷は、元からあった古傷——胸元からおへそのあたりまで、一文字にまっすぐ刻まれた、手術|痕《こん》——のほか、切り傷、打ち傷、焼き傷、みみず腫《ば》れまで、あらゆる傷跡があった。すでに治りかけのものもあれば、ついさっき作られたと思わしき、血をたらたらと流す傷もある。  美乃里は、石造りの牢《ろう》のなか、囚《とら》われていた。  牢のなか、天井からさがる手枷《てかせ》つきの鎖に、その両の手首を拘束されていた。そうしてバンザイした姿勢のまま、座ることも横になることも許されず、ずっと石畳の上、膝立ちをさせられていたのだった。  少女の無惨な身体をかろうじて覆うものといえば、以前より伸びた髪、ただそれだけ。  手入れなどされることなく、ばさばさになった黒髪だけが、美乃里の幼くふくらんだ胸元をようやく覆い、隠していた。 「ふ、ふふ、ふ……」  美乃里はうなだれたまま身体を震わせ、笑う。 「自分でやらせたくせに……そーゆーの、偽善っていうんだよ、四岐さま?」 「しかたがないだろう。おまえは薫風《くんぷう》高校に攻めこみ、一般の、無関係である生徒たちを危うく殺《あや》めるところだったのだから。これでもまだ足りないくらいだ」  ああ、そうそう、と四岐はつけくわえる。 「九院《くいん》がいっていたよ。美乃里、おまえがなにかを企《たくら》んでいる、だからいっそこのまま処刑してしまえ、とな。ふふ……九院の心配性にも困ったものだ。たとえおまえがなにを企もうとも、そのそばにはつねに鵺《ぬえ》がいる。そして鵺は美乃里、おまえとおなじように、我ら三珠《みたま》家に作りあげられた存在。ゆえに鵺は我らに逆らえず、あざむけもしないのだ。そんな監視役がつねにいる状態で、いったいなにを企むというのやら……なあ、美乃里?」 「……いまは鵺、わたしのそばにはいないけどね」 「ああ、おまえの親友は、じつに役にたってくれているよ。ほら、鵺」  四岐の呼びかけに、彼の背後に伸びる影から、白髪の女性が頭をだした。  ちら、と美乃里《みのり》を見て、四岐《しき》の影から手をだす。  手は、すでにカニのかたちをしていた。かにかにどこかに、と動く。 「鵺《ぬえ》はじつに大きな成果をあげたくれたぞ。美乃里、覚えているか? カニ……ではなく、北海道の件だ。ほら、あの人狼《じんろう》どもだよ。我らの監視下にあった犹守《えぞもり》朔《さく》に接触した、あの人狼ども」 「えーっと……自分たちを捨てた長《おさ》を捜していたとかいう、人狼たち?」 「そうだ。あいにく、あれからすぐ朔には逃げられてしまったが……ふふ、なにがどうつながるのか、わからんものだな。人狼たちの捜す長とは、犹守朔の妹、犹守|望《のぞむ》に関係があるのではないかとの、美乃里、おまえの推測は正しかった。あとはおなじく妖怪である鵺を使い、人狼たちに望の情報を流してやって……おかげで、うまく〈龍《りゅう》〉の暴走を引きだすことに成功した。札幌の時計台やらなにやら、いろいろと破壊し、おまけに一般人にその姿を目撃までされた。ははは、これは充分、薫風《くんぷう》高校をつぶす理由になる。だろう?」 「それは、止《や》めたほうがいいと思うな」 「ふふん? 薫風高校の解散をか? なぜだ?」 「だってさ……」  美乃里は顔をあげる。  その、かつては耕太と似た印象を受けた顔つきは、眼《め》は腫《は》れ、頬にはあざができと、すっかり変わり果ててしまっていた。切れた唇で、にぃ、と美乃里は微笑《ほほえ》む。 「たしかに薫風高校をつぶしてしまえば、〈御方《おかた》さま〉の一派は拠点を失うよ。でも、そうなったらたぶん、みーんなどこかに逃げちゃう。どうする? 九尾《きゅうび》の狐《きつね》のところにでも転がりこまれたら。〈八龍《はちりゅう》〉と〈御方さま〉だけでも面倒なのに、さらに〈九尾〉……そうなったら、さすがに〈葛《くず》の葉《は》〉全部隊を使っても、かなり手こずるんじゃないかな」 「ふむ……」 「だから、その北海道の件は、〈御方さま〉を揺さぶる材料にでもするとして……とにかく、薫風高校は残しておかなくちゃダメだよ。それはつまり、逆に〈御方さま〉を薫風高校に縛りつけることにもなるんだからさ。ね?」 「なるほどな……そういう考えもあるか。ふふ、やはり美乃里、おまえの力はまだまだ必要なようだ。よし、そろそろこの鵺は、おまえに返すことにしよう」  と、四岐は振りむき、自分の影から顔をだしたままの鵺を見た。 「うん? じゃあ、この拷問、もういいの?」  美乃里が、天井から手首へとつながる鎖を、揺らして鳴らす。 「拷問ではない。これは罰だ。薫風高校に攻めこみ、一般の生徒に危害を及ぼした……蟲使《むしつか》いの妖怪《ようかい》を監督できなかった、美乃里、おまえに対するな。それならば三ヶ月も罰を受けていればもう充分だろう。なにか文句をいわれたら、その傷でも見せてやれ」 「ふーん。あの蟲使いにぜんぶの責任、かぶせるつもりなんだ。また九院《くいん》、怒るよ?」 「怒ったなら、なだめればいい。多少、身体はキツイが……な」  にたり、と四岐《しき》は下卑た笑いを浮かべた。 「待っていろ、美乃里《みのり》。もはや三珠《みたま》家のなかに、わたしに逆らえるものなどいやしないのだから。すぐにこの臭い場所からはだしてやる」 「……四岐のお父さんが病気になって、もう一年か」  美乃里の呟《つぶや》きに、四岐は、くくく、と笑いだす。 「いきなりなにをいいだすんだ、美乃里?」 「いや……すっかり貫禄がついたというか……当主ぶりが板についてきたというか」 「悪人になったというか、か? ふふ、おまえには本当に感謝しているよ、美乃里」 「えー? どーして感謝? だって四岐のお父さん、原因不明の奇病なんでしょ? なのに感謝されても困るなー。まるでわたしが、毒を盛ったかのような……」 「あー、わかったわかった。もういうな。安心しろ、これ以上おまえの身体を傷つけるようなことはさせないし、傷が残らんよう治療もしてやる。だからおとなしくしておけ」  そういい残し、四岐は去っていった。  また戻った暗闇《くらやみ》と静寂のなか、美乃里はふふ、と笑いをこぼす。 「鵺《ぬえ》は決して逆らえず、あざむくこともできない……嘘《うそ》もつけない、か。ふふ、ふふふ、ははは、いいよ、四岐。ずっとそう思いこんだままでいるといい。最後の最後まで……ね」  美乃里のひそやかな笑いは、闇のなか、いつまでも続くのだった。      2 「うう……」  湯けむりのなか、ちずるは顔をしかめていた。  そのくっぽりした鎖骨のくぼみの下、大きな大きなちずるのふくらみは、お湯になかばまで沈んで安らぎ、ゆたたよ〜んと揺らいでいたのにだ。お湯の浮力によって重力のくびきから解放され、楽々おっぱー状態で気分上々なはずのちずるは、なぜか目元を苦痛にゆがませ、後ろにまわした腕でどこかを押さえていた。 「あんまりムチャするからだよ、ちずる」  望《のぞむ》が、湯船のへりの岩場に座り、ちずるがつかるお湯に足だけを遊ばせながら、いった。  すでにひとっ風呂《ぷろ》浴びたあとらしく、望のそのでこぼこのすくない、なだらかな身体には、びっしりと汗が浮いていた。だらだらと胸元を流れ、おへそからその下へと滑り落ちてゆく。  ふたりの背後に広がっているのは、満天の星空だ。  ちずると望は、温泉に入っていた。  人狼《じんろう》の里の外れにある、天然の温泉である。昨夜は耕太も入ったその湯船は、人狼たち数人がどうじに入れるよう、広く浅く掘った上に、なだらかな岩を敷きつめて作ってあった。引いてあるのはぬるめのお湯で、切り傷、擦り傷に効能があるらしい。  けっきょく、耕太たちは人狼《じんろう》の里に、まだ残っていた。  マキリとレラの結婚式に出席するためである。流れ的に、もう帰るとはいいだせなくなってしまっていた。あの時点でやり直したため、準備だなんだで夜になり……人狼たちの熱心な勧めもあって、もうひと晩、泊まることとなったのだった。  耕太はいま、用意された部屋に、ひとり、残っている。  残っているというか……もはや精魂尽き果てた、というか。  精魂を、ちずると望《のぞむ》にしぼりとられていた、というか。  すでにちずると望は身体の汚れを洗い流した、というか。だから望はひとっ風呂《ぷろ》浴びたあとで、身体の火照《ほて》りを冷ましていた、というか。しかしなぜかちずるはずっと『切り傷』に効くお湯につかったままだった、というか。 「いいもん。耕太くん、喜んでくれたもん」  ムチャするからだよ、との望の声に、ちずるはぶすっと答える。 「そんなことより、望……あなた、今回、本気で人狼たちの長《おさ》になる気、なかったでしょ。ただ単に利用しただけでしょ。耕太くんの気を惹《ひ》くためだけに」 「やだなあ、ちずる」  望は、いつものとぼけ顔でいった。 「それじゃあわたし、まるでサクシみたいじゃない」 「充分、策士でしょ……って、策士? 望、あなた、まさか……今回の件、ぜんぶあなたが仕組んでいたんじゃないでしょうね? マキリとレラが耕太くんをさらったときの、あのきわだった動き……わたしが〈龍《りゅう》〉をコントロールしきれてないとか、耕太くんの手前、あんまり乱暴なことができないとか、ぜんぶ見切ったうえで、すべての作戦をたてたのは、望《のぞむ》、あなたなんて……」  ちずるは、望をまじまじと見つめる。  しかし望は、ん? とただ首を小さく傾《かし》げるだけであった。 「ま、まさかね。そんなわけないか。この天然ボケが、じつは悪魔のごとき裏の顔を持っていたなんて……ふふ、ふふふふ、あは、あはははは……」 「とうっ」  いきなり望が湯船に飛びこんだ。  派手にお湯しぶきがあがり、笑っていたちずるはまともに浴びてしまう。気管に入ったのか、ちずるは咳《せ》きこみ、とたんに「いたたた」とうめいた。 「の、望! あなたね、湯船に飛びこんじゃダメって、マナーを……」 「ちずる」  望は、ちずるを真剣そのものの顔で見つめていた。髪をさきほどの飛びこみでずぶ濡れにし、しんなりした毛先からぽたぽたとお湯を垂らしながら。 「な、なによ」 「あのね、今回の件は、もちろん耕太のこともあるよ? だけどね、父さまのためでもあるの。父さまの想《おも》いを、この里のみんな、ちゃんとわかってくれてなかったから、だから、だから、わたし」 「わかってる」  なおも喋《しゃべ》ろうとする望の唇に、ちずるは人さし指をぴとっと当てた。 「望のパパオオカミの願いは、『長《おさ》なしじゃもうダメだー』なんてダメダメ一族が、おのれひとりひとりの力で生きていけるようになることなんでしょ。自立ってやつ? だいじょうぶよ。今回の件で、あのヘタレ一族もちょっとは目が醒《さ》めただろうし……あのマキリとかいうの、自分ひとりの力だけでどうにかしようなんて思ってないみたいだから、きっとすこしずつ、よくなる。だからだいじょうぶ」  ん、と望がうなずく。 「ちずるも、だいじょーぶだよ」 「は? わたし? なによ、いきなり……わたしのなにがだいじょうぶだってのよ」  とまどうちずるに、望は答えない。  ただ黙って、おなじ湯船のなか、ちずるを見つめていた。  やがて、ちずるが息を吐く。長く、深く。 「そっか」  と、ちずるはいった。もういちど、「そっか」と呟《つぶや》く。 「わたしの身体のこと、気づいてたか……」 「うん。だからだいじょーぶだよ、ちずる。たとえ耕太がひとりぼっちになっても、そのときはわたしが、ちずるの代わりに……」 「させるか! って、もしかして、望《のぞむ》? 今回いきなり、あなたが耕太くんとの距離を縮めようなんてしたのは……」  うん。望はしっかりと、深くうなずいた。 「いざというときのため……」 「かーっ! 望、きさま……じつは本気だったな? 耕太くんとの結婚、じつは本気でしようと企《たくら》んでたな? どうだ、答えろ!」  ん?  望は、あいかわらずのとぼけ顔で、小首を傾《かし》げ——。  ちずるに頭をがくがくと揺すりたてられた。 「もうその顔に騙《だま》されるか! やっぱりあなた、マキリとレラの耕太くん誘拐大作戦を立案、実行させた張本人だったんでしょう! それどころか、今回の騒動のすべての黒幕で……こ、耕太くんは、ぜったいに渡さないんだから!」  と、怒鳴ったり、望はとぼけたり、途中、力みすぎてちずるが「いたた」とうめいたり。  夜空と空の星だけが見守るなか、ふたりのお湯をはね散らしての争いは、続くのであった。そしてひとり寝床にとり残された耕太は、呟《つぶや》く。もう、ダメ、と。 ごめん、待った? ううん、いまきたところ  おれはようやく、登りはじめたばかりだからな……。  この果てしなく遠い……おっぱい坂をよ!  というわけで、どうも、西野かつみです。(挨拶《あいさつ》)  いきなりこの乳作家、なにをいいだすのかとお思いでしょうが、これは理由です。  なんの理由かって、今回、このかのこん七巻を読者のみなさまがたのお手元にお届けするのが、すこーしだけ遅れた、その理由でございます。  わたくし、旅をしておりました。  そう、さらなる愛を描くための旅へと……!  えー、かのこんもとうとう七巻まできました。ここまで応援してくださった読者のみなさまがたには、とても感謝の言葉もなく……足を向けて眠れず、だから立って寝ています。すごく寝不足です。まあ、それはともかく、耕太《こうた》、ちずるの愛の激情&劇場も七作目まできますと、もはやその愛のカタチはすさまじく、いかんせん、わたしの力では、もはや足りず……こ、このままでは、描けぬ! あのバカップルの愛のカタチを、描けぬ!  ——だったら描けるようになればいいじゃーん。(おっぱい神のお告げ)  はーい、旅だちまーす! いくぞ、エロス&アガペーをもとめて三千里、いっそ銀河のかなた、エロカンダルまで! 待っていろ、宇宙的おっぱい! はっぷるはっぷる!  しかし修行の旅は、困難を極め……。  うああ、もうおっぱいは止《や》めてくれえ! ゆ、許してくれ……あ、ああ……お、おっぱいが? おっぱいが、攻めてくる!? 星が砕ける!? 銀河が啼《な》く!? おぱぱぱぱ!?  でもぼくは帰ってきたもんねー!  そして得た、旅の果てのワンピース……いや、ぱいピース、みなさまがたにもおわけいたしましょう!  かのこんの漫画、コミックアライブにて、絶賛連載中です。コミックスも、絶賛発売中です。さらにはドラマCDも、絶賛発売中です。さあ、みんな! いますぐお店に走って、手に入れようぜ、ぱいピース! ともにSF時空(すごいふくらみorすこしのふくらみ)へ旅だちましょうぞ! いっしょなら、堕《お》ちるのも怖くないヨ!?  以上、宣伝あとがき、終了ナリ。  ちなみに、いつもグッド・ヴァイブレーションイラストを担当なさっている狐印《こいん》さんには、今回、けっこうなご迷惑をおかけしてしまいました。でも本当、いい絵だなあ、かわいいなあ……ドレス姿の耕太。あ、迷惑といえば編集長や担当さんにも、ごめんなっぱい。 平成十九年五月 くっ……連邦のおっぱいはバケモノか!?  西野かつみ 発行 2007年6月30日 初版第一刷発行 2008/06/10 作成